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江戸時代、更科そばの客層

2011年10月 6日 

江戸時代中期から更科そばが出来その後まもなく今日の変わりそばができたとありますが、その当時の【更科そば】を食した層はどのような層か?

 
 答

 喜心庵のHPをご覧いただき有難うございます。

白いそばを更科そばというようになったのは、「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」(1789年創業)が始まりだと推察しております。 それ以前にも更級そばの記述はありますが、白いそばを指すものではないようですし、また白いそばや変わりそばと推察できるものについては1789年以前の記述もあります。

ただ、白いそばが商売として成立するのは「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」からで、それ以前は、早晩潰れてしまったり、白いそばをやめて普通のソバのみを売るようになったそうです。

「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」ができる以前は、現代で言うところの更科そばは、江戸においては、そば好きの個人的な趣味に留まっていたようです。 ということで、ご質問については、「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の創業当時の顧客層についてお答えします。

これについては、様々な資料に一致しているのは、譜代大名の保科家の後ろ盾により大名,旗本、寺院を顧客にしたとあります。 こう言った御大家等を相手にする場合、出前が普通です。

現代の出前と江戸時代の出前ではかなり違った意味合いを持つことを理解する必要があります。 今は、高級店と呼ばれる店ではあまり出前はしません。 江戸時代は、電話もありませんから、出前注文は、注文するお客の方がそば屋まで行って注文することになります。

またそういった出前注文は、十数人前以上が普通で、吉原など遊郭などを除けば少人数前の出前は例外だったようです。 つまりそば屋まで使いを出せるような御大家などが、顧客になります。

江戸時代は高級店のほうが売上に占める出前の比率が高かったようです。 老舗のそば屋のご主人が、戦前でも出前が売上の7〜8割を占めていたと書いたものを目にしたことがあります。

話を、「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」にもどしますと、布屋さんは麻布の保科家の敷地に店を出すことを許されたとあります。 江戸時代の古地図をネットで調べていただければお判りだと思いますが、麻布は当時、大名屋敷,寺院、旗本屋敷ばかりです。

特に寺院への出前が大かったのではないかと推察します。 麻布あたりの寺院の檀家は当然、武家が多いでしょうし、土地柄から浅草寺門前のように飲食店がひしめくところでもありません。お寺で法事や墓参りをすれば、お寺で軽く食事ということで、そばの出前をとっていたことは、容易に想像できます。 当時旗本ともなれば、一人で外出することはありません。必ず「ともの者」をつれて外出します。 当主が正式に家族を連れての墓参りとなれば、共の者を入れて10人以上というのも珍しくなかったでしょうし、正式の法用や大名家の墓参ともなればもっと多くなります。

また寺は身分の上下無く出入りできますので、句会等趣味の場所としてもよく使われていたそうです。そういう場でそばを出すこともあったと思います。 布屋さんもその辺を意識してか、店の前を通った僧侶にお布施として、ただで、そばを施していたそうです。

寺だけでなく大名家や旗本も忙しい時や催事の時などに出前を取っていたと思います。 もし大名家で家臣や小物や出入りの業者、手伝いまでに振舞うとすれば数百人分あるいはそれ以上を出前することになります。もちろん何百人分も一店舗で用意してた訳ではないと思いますが。

「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の場合、顧客は更科そばを好んで食べていた個人というより、大名家,旗本、寺院といった組織が顧客であり、そういった組織と関わった人たちに更科そばが広まっていった。と見るべきかもしれません。

ある程度評判になれば、物見高いのは人の常ですし、特に江戸っ子は珍し物好きですから、普通の町人も食べに行ったのだと思います。

話はちょっとずれますが 白いそばを侮蔑するような言い方で「素麺のようだ」という人がいます。 素麺は明治になって機械製麺ができる以前は高級食材で一般庶民が簡単に食べられる物ではありませんでした。

素麺は日本料理の中で最も格式の高い麺なのです。たとえば、懐石料理では格式の高い順に真・行・草の形式に区別されますが素麺はどの形式にも使われます。 そばは、鄙びた雰囲気を演出する場合や季節を演出するときに「行」もしくは「草」の形で使われます。うどんに至っては懐石料理自体に使われることはまずありません。(もちろん、うどん懐石など新しい試みは個人的に高く関心を寄せています)

そばに対する悪口として「素麺のようだ」というのは、日頃から碌なそうめんを食べていない無教養人だと自ら言っているのと同じです。 「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」以前に白いそばを商売にしようとした人が失敗していたことから,多分こういう白いそばに対する無理解は江戸時代も同じだったと思います。

 布屋さんは「教養があって財力があり日頃から素麺はもとより、ちゃんとした物を食べ、素麺と更科そばの違いを感得でき、その上で更科そばを愛でてくれる人を顧客とし、そういった顧客ニーズのある場所に出店した点に成功のかぎがあった」とも言えるのではないかと思います。

 

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