蕎麦禁断の碑(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)
近き頃より浅草称住院の寺中道光庵にて蕎麦を製し初めけるが、都下に賞して日々群集し、さながら貨食舗の如し。よって本寺より停められたり。
この記事は『
武江年表
』天明元年の条下にある。なんでも道光庵の僧が信州松本在から出た人で、蕎麦打ちに妙を得ていたところから、蕎麦を打って寺の檀家たちを饗応した。その風味の好いのが評判になって、寺参りに託しては蕎麦を所望する連中が殖えてきた。寺でも最初はその所望に応じて切れないほどなので、体よく断ることにした。すると今度は直接道光庵へ押しかけていっては蕎麦を打たせる。道光庵でもついには商売人のように代物を受け納めるので、檀家でもない一般の客が毎日押し寄せるという繫昌、そこで称住院では黙ってもいられず、ついに当院の清規を乱すという口実の下に、蕎麦を境内に入れないことに定めて、「不許蕎麦入境内」の標石を門前へ建てることにした。これが天明の六年正月二十五日の事で、まるで禅寺の寺門にある「
不許葷酒入山門」の筆法である。僧家では大ぴらに食う蕎麦を葷酒と同様に扱ったという珍談は、よくよく困った結果だったと察せられる。しかし道光庵ではその後も引き続き蕎麦を売り物にしたと見えて、道光庵の名は久しく名代の蕎麦屋と併称されていたのだから、一旦は停止されてまたいつか復活したかと思われる。
この標石は安政二年の大地震に三つに折れていずこかに埋没していたのを、昭和二年十一月五日同寺の墓地を府下北多摩郡千歳村
烏山へ移転の際、屑石の下から発見したので、今では烏山の称住院の境内に移されてある。建設の年号が天明六年とあるから、実際禁止の年はやはり六年とするのが正当であろう。
|