現代に永続せる店(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)
麻布永坂の更科、
神田連雀町
の薮そば、浜松町の薮そば、日本橋
木原店
の
東橋庵
、神田通神保町の
地久庵
、京橋竹川町の長寿庵、本所松井町の白滝等々。
屈指の店も少なくはない。その中に大正十二年の震災に逢って再興のできないものもあって、名跡を消したのがあるが、今日もなお昔ながらの格式をおとさず、名実共に一流の店の永続しているのははなはだ意を強うする。
明治年間の蕎麦屋の短評を書いたものから、今現存の二、三の店に関する記事を抜いて見ると、
蓮玉庵
|
下谷
池之端
仲町にあり、旧家にして別製生蕎麦の名代なり。太打に風味あり。夏分は氷蕎麦も出す。二階大広間は雑居なれども、池の眺望等
殊
によろし。 |
|
(『東京百事便』) |
萬盛庵
(おく山)
|
浅草公園地内三社の裏にあり。南と西に入口あり。庭内には数々の離室もありて、風流の構なり。門には
其角
の書、萬盛庵の三字を刻せる扁額あり。庭内には
人丸
の神社あり。この家の蕎麦は味殊によろしく、この辺で第一等なり。 |
|
(『同上』) |
蘭めん
|
南葛飾郡押上土手にあり、庭園閑静にして古池などあり、奥の
離
二階は
殊更
閑談等に適当せり。 |
|
(『同上』) |
とあるが、これによって見ると、明治二、三十年頃までの蕎麦屋は、よほど風趣に富み、単に口腹を満たすだけの場所ではなくて、ゆかしい落着きのある構えで、風流とか雅趣とかに、充分な注意を払って、客を迎えたものであった事は、明らかである。
現在の蕎麦屋で、
往昔
の面影を庭園の眺めに留めている家は、震災後には全く絶無となってしまい、そして東京で代表的の蕎麦屋が、いずれも入口の土間にテーブルと椅子を並べて、簡易食堂化してしまったことは、時代の要求でやむを得ないが、中には肝腎な蕎麦を二の次として、親子丼や天丼や支邦蕎麦の類を売るに至ったのは、真に心細い次第である。
少しも生活にゆとりのない、慌ただしくせかせかとした日々に追われている時代に、手打ちでも機械でも論はない、味はまずくても安くさえあれば、客は満足するのだから、真価のある蕎麦は段々に減じて行くばかりだ。 |