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関東地方の概況(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年) 蕎麦は他の植物ほど、土地の
ただ、気候の関係だけは、著しい影響があって、北国の寒 土には一般に適し、南方の暖地には適せぬ。寒気の強い国に産するものは、香味に富み味も優れているが、暖地の産は、香味共に劣っているばかりではなく、苦みがあって、食用にはならないと言われている。 収穫は各地の気候によって、多少の遅速はあるが、千葉県中山附近では、夏蕎麦は七月下旬、秋蕎麦は九月には走りが出る。一般の農作物に比べると、播種から収穫までが極めて早い。しかし新蕎麦の出盛るのは十月下旬から十一月にかけてが普通なのである。 最も蕎麦を作るのに適した土地は、北方に山嶽をいただき、南方の開けた、山麓の畑に栽培したものが、優れた佳品とされる。 肥料もその土地によって、幾分の相違はあるにしても、多 くは人糞に灰を混和したのを施している。 で、蕎麦は花の落ちんとする時、すでに青実を結んでいるため、霜の早い年には、実が黒く変じてしまって、著しく品質が低下する。その年、霜の早い晩いによって、粉になっての優劣が異なるのである。 北国に適する植物でありながら、霜に弱いのは不思議なこ とだが、厳寒に堪え得るものに 韃靼種 だったんしゅ というのがある。実の断面が普通は三稜であるが、この種は稜角波状をしていて、品質に至っては、到底内地産のものとは、比較にならぬほど劣っている。 優れた産地は古来から、信州を屈指の土地として挙げてい るが、交通の便が不完全だった結果、遠隔の国国に、あるいは信州以上の品があったかも知れない。しかし蕎麦といえば、信州をたちどころに想像する程、有名 になったのだから、たしかに昔から逸品だったに違いない。 現在でも一般から、信州の蕎麦は名物とされている。けれ どもその特産地として名高い信州に、蕎麦に関する一編の沿革史も編成されていず、統計的にも詳しく記述したものがない。それは蕎麦が地方の副食物、もしくは主要食糧の補充程度に止っている関係であろうと思われる。 柏原が信州中でも、特に優れた品を産出していたのは、俳人一茶の自慢ばかりではなかった。 今でも信越線柏原駅の附近には昔からの手打蕎麦を商っている店が残っていて、蕎麦そのものの特有の風味を伝えている。 戸隠蕎麦も味は劣らない。木曽の寝ざめ蕎麦も、昔から名高いものの一つである。 信州の蕎麦をして移出の先鞭をつけたのは、更級郡で、優良品の目標となった『更科そば』の名称は、その産地を冠したものから来たのであった。 では信州の年産額は」いったいどのくらいであるか。昭和三年の調査によると、作反別は三千三百六十二町九反で、すべて収穫したものを、各自が原形のままで市場に出荷し、それを一部の蕎麦屋、もしくは米穀商や製粉会社などの手で、加工して販売されるが、耕作者が組合を組織し、生産者が加工した上で、市場に売り出す方法に改めれば、農家の副業として相当の収入を見る事が出来るのだから、一般に組合の出現を望んでいるので、早晩この計画は実行されるであろう。 県下に於ける産額を、地方別に示すと、左のような数字で表 すことが出来る。
長野県に比べると、群馬地方はすべてが及ばないが、それでも最近東京に移出される蕎麦は、上物として声価を挙げている。
以上の如き統計を示している。金額の高低は品質によって、 多少の差があるが、作づけ反別は一千七百二十九町七反分、収穫高は一万六千九百八十五石、年産額は二十五万九百四十八円である。 県下に産するもので、風味の優れているものは、いずれも山間部落をもって最上とされ、勢多郡の赤城山附近、群馬郡の伊香保、榛名附近、吾妻郡、利根郡方面の山土の畑が最も適した屈指の栽培地とされる。 しかし、蕎麦作が良好であっても、これを称揚すること は、耕作者の畑を悪くいうのと同じだと言って、作柄については、絶対に何事も言わぬ。
作付反別の合計は三千四十町一反分で、収穫高は二万七千四百三十七石、価額は三十八万九千二百十円に達するから、長野に次ぐ産額である。
作づけ反別四千六百十六町四反、収穫四万七千百八十石、 価額五十五万五千六十九円というから、関東地方では、茨城県下の産額が首位にある。 茨城県下の蕎麦作の記録には、水戸光圀の命によって、最初信濃から種を移入し播いたのが 濫觴 ( らんしょう ) で、 播種 ( はしゅ ) した場所は、西茨城郡川根村柿抜橋(現・友部町)という地であった。天下の苦労人として下情に通じた光圀が、 蕎麦に関係あるのは、いかにも事実らしい気がする。 種子は貯蔵に堪え、粉は寒暑の別なく食べられるので、こ れを貯えておけば、兵糧となりまた凶作の場合、米麦の補いとなるという、光圀の深慮遠謀は、今日の茨城県下に、本場の信州以上の収穫を見るに至ったのであ る。 『蕎麦作りに飢饉なし』とは同県下で、一般に言われている言葉で、また実際なのである。 これは夏冬二季に播種が出来るからで、種を播いて、七十五日経れば、刈取りが出来るから、麦や陸稲が不作だと見込が付くと刈取ってしまい、すぐに蕎麦を作ることが出来るのだ。 茨城県下で一番多く作られているのは久慈郡で、太田町附近から保内郡一帯にかけて、煙草畑の刈取りが済むと、すぐその後に蕎麦を播いている。播種は八十八夜がよいといっているし、又、大豆の後に作った蕎麦が美味だとも言っている。夏は馬鈴薯や胡瓜、茄子などの後に作るのが一般である。 埼玉県ではあまり蕎麦を耕作していない。全県下の作つけ反別は、一千三百二十七町五反分で収穫は一万四千一石、価額十五万五千八百十八円という統計によって見ても、他の県に比べてすべてがはなはだ少ない。作の多い地方は、北埼玉、北足立、南埼玉、秩父という順序で、平均収量は一反歩あたり七斗八升、石当たりの平均値段は十四円九十銭となっている。 全収穫の三分の二は、主として東京地方に販売され、残余の三分の一が県下の需要を充たしているに過ぎない。 神奈川県下の蕎麦の収穫量ははなはだ少なく、総産額一万六千六百四十石で、価額は十二万千四百二十九円、作づけ反別は千三百五十四町四反である。これを郡市別にみると、
この県下には、あまり蕎麦の耕作は少なく、東山梨、西山 梨、東八代、西八代、南巨摩、中巨摩、北巨摩、南都留、北都留、甲府の一市九郡の年産額十一万一千三百五十八円、収穫五千八百五十一石であるから、決してたいしたものではない。 千葉県下の蕎麦の栽培は、他県に比して全く問題にならないほど少ない。作づけ反別は三四十町歩しかなく、収穫も一万三千石に過ぎず、価額は五六万円程度である。 県下では印旛、東葛飾の両郡が、比較的に多いだけで、他郡は自家用に作るくらいのものに過ぎない。したがって全県下の蕎麦営業者の自給自足の範囲である。天候とか風害などの関係で、収穫の不良の場合は、他県から供給を受けることはあっても、他県に移出するような事は絶対にない。 県会の主任技師の話によると、千葉県では蕎麦の作づけ反別や年産額等は、余に僅少であるために、統計的のものが、数字には現れていず、現在では全く問題にならぬ状態である。人口の増加に伴って、食糧問題のやかましいおりから、米の代用品としては、値段も安く栄養上からいっても、蕎麦は極めて良好であるから、将来は土地風土等の最も適当している本県にも盛んに栽培して、他県同様に県外移出の出来得る程度にまで奨励をしたい、という希望を持っているから、やがては相応に耕作されるに至るであろう。 当寺の名産とす。これを産するの地、裏門の前、少し高き畑にして、わずかに八反一畝程のよし、都下に称して佳品とす。然れども真とする者はなはだ少なし、今近隣の村野より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども、佳ならず。 (『江戸名所図会』) |
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