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 木鉢、のし、包丁の三法 (村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年) 

 手打ち蕎麦の製法は、極めて雑作もなく、一度見れば、誰にでもすぐに出来そうに思われる。しかし決してそう簡単なものでない事は、そこにこつがあるからである。

 製法を述べると、蕎麦粉を木鉢に入れて、適宜の水を加えて手で捏ねあげ、一個の団子を造り、それを麺棒で伸して扁平に薄くしたものを麺棒に捲きつけて、さらに適度に平均し、よきほどに折りたたんで、小口から細かに切り、熱湯で茹で上げ、清水に浸して洗えばそれで食べられる。

 こう一口に言ってしまうと、いかにもなんでもなく出来る。いや実際素人にだって、雑作もなく造り得らるるに違いない。しかしそれは味わうべき蕎麦でなくて、単に見たところの蕎麦切である。

 そんなに簡単なものなら、板前はなんら苦心も要さず、蕎麦屋によって、うまいまずいという甲乙のあるべきはずもない。どこの店でも同じ味のものを食わせるわけだが、決してそうではない。恐らく蕎麦ぐらいその店によって味に 懸隔 けんかく のある食物はあるまい。板前の腕の 巧拙如何 こうせついかん は一箸をつけただけで、ただちに看破される。人の味覚は実に正直にそのうまいまずいを判断する。

 一木鉢、二のし、三包丁というのは、常に板前の苦労する要点である。最初に木鉢に入れて粉を っちる時、その水加減が最も大切で、例を引くとちょうど飯を焚く場合の水加減と同じで、この水が多いか少ないかが、出来上がったものの上に、相応の影響がある。そして捏ね方にも、別にむずかしいというほどでなくとも、やっぱり言う事の出来ない呼吸がある。

 のしと包丁に至っては、多年の修行によって、会得した板前の体験であるから、説明することは至難である。あの薄く伸せば伸すほどひびの入りやすいものを、一本の棒によって、平らに平均した一枚のものに伸す技倆は、手練の結果でなければ、器用に出来得ない。包丁はつまり伸した蕎麦を、細く切って行く技で、これも一枚のコマ板(桧または桐で造ったもの)を 定木 じょうぎ に当てて、極めて敏速に、ほとんど 毫厘 ごうり も違わない同じ間隔に切って行く。熟練した板前の手際の鮮やかさは、実に驚嘆する働きだ。

 最後に茹でと洗いであるが、これもその釜前の巧拙によって、味が違うとさえいわれるほど大切な点だ。茹で過ぎては無論柔らかくなって、形が崩れてすんなりと出来ぬから、歯にぐちゃぐちゃとつき、茹でが前では硬く生の味がして食心地が悪い。柔らかくなく硬くなく頃合いに茹でるのは一つの腕である。しかも何分何秒と、機械的に茹でたのでは味が出ないから、これらは全くの経験で会得して行くだけで、口で教えられるものではないのである。

 洗い方が悪いと、舌触りがぬるりとして、味が悪いと言った調子で、すべてコツで造って行く。だから鍛錬の浅い職人と深い職人によって、まずい蕎麦とうまい蕎麦がとが出来るわけだ。

 水は水道よりも堀井戸の水の方が、よほど味が勝っているとされているけれど、実際洗った水が水道か堀井戸かを判断できるほどのデリケートな味覚の持ち主はちょとあるまい。まず蕎麦の大通といえども、容易に弁別し難い事だろうと思う。

 出雲松江の人で堀礼蔵という人があった。ひどく蕎麦を嗜んで、客来のたびに自製の蕎麦を饗した。その手腕の妙なるに感じて製法を尋ねた人に答えたには、別段に異なった事はないが、ただ手加減一つである。自分は時折身体に不快を覚えた時、蕎麦を製して幾椀か喫すると、心持がよくなり病気も治癒するように感ずる。それで蕎麦屋からは取らず、面倒でも自分で手にかけ数十年手製を練磨して来たのだ。家の周囲の畠へ き付けて自作の蕎麦を収穫するが、これを粉に製して需要に適するのは冬と春であって、夏秋になっては味が ちるから、毎年初夏に種を下ろし発芽を待ち、その葉を摘み取って 擂鉢 すりばち にてすり、清浄な麻布に包み汁を絞り出し滓を去って粉を練ると、挽茶色に青くなってその香気が愛される。花が咲けば花を摘み取って、また前の如くにして喫する。収穫した後はまた植え付けをするから。一年中いつも新蕎麦を食っているようなものだと言ったそうだ。



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