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機械と手打ち(村瀬忠太郎著 蕎麦通 昭和5年)

 蕎麦は手打ちに限るといわれていたのは、すでに過去となって、昨今では広い東京に数多い蕎麦屋のうちでも、手打は十指を屈して数えるほどしかない。はなはだ心細い次第である。特に著名な店でさえ、平気で機械打ちの蕎麦を食わせるに至っては、全く蕎麦の末路というほかない。

 簡単を尊ぶ時間経済と、利益を多く見ようとする一挙両得の結果から、以前のごとく腕の優れた板前を高給を払って雇っておくよりは、一時に比較的高い金を出しても一度機械を据え付けておけば、給金も払わず飯も食わせずに、出来不出来なく、常に同じように製造することが出来る。いかに腕の優れた職人にしても、気分や感情の平らかな時ばかりではない。そんな時には出来のおもわしくないことが、長い年月の間には、必ず無いとは言われない。

 そういう欠点は機械には絶対ない。ちょうど反物を織るのと同じに、一定の幅を保って、いくらでも長く作られる。だから冗談によく言うが、『恐ろしく長い蕎麦だ、これじゃ梯子をかけて食べなけりゃ、おっつかない』

 即ち、この長く連続して、切れ目のないのが機械にかけた蕎麦である。しかし職人が気を利かせて、いい加減に切って器に盛り、客に食べやすくして出すんだから、必ずしも機械打ちでないとは言われない。

 手打の蕎麦は長さも二尺が程度だ。桧の麺棒に巻き付けて、台の上で伸すのだから一番長い麺棒にしたところで、縦は麺棒より長く伸せるが、幅はそれ以上には造られない。

 つまり日本人が一口に啜り込める程度に打った昔の習慣が、今日に及んでいるものと思われる。

 機械の蕎麦と手打の蕎麦とは、下ごしらえから違って来る。粉を捏っち上げるにしたところで、機械にかけるものは、手打ほど捏ね工合が丁寧ではない。そして出来上がったものを茹でるのに機械の方は手打に比して、幾分か時間がかかる。それは機械で堅く締めるため、いわゆる押しが強いので、どうしても茹でるのには間が取れるのである。したがって切れ目の四角なはずのものが、角が取れて丸くなってしまう。だから機械打ちはなんとなく歯当りが軟らかい、そして手打と同じように茹でれば、火が十分にとおらぬから、白く芯が残っている。つまり茹でが前だからである。

 そこへ行くと手打ちは、茹でても四角な形は決して崩れるような事はなく、すんなりとして、自然な風味を失わない。

 園遊会の模擬店には、必ず蕎麦が出ている。その蕎麦は大抵の場合は、玉といってすっかり造り上げておいて、すぐに間に合うように、こしらえたものを持って行くのだが、機械で打ったものは、相当に時が経つと、べとべとにくっついてしまって、手がえしが悪く、したがって歯切れがはなはだよくない。だから固まった切れの悪い蕎麦を、よく食わされて困るがある。どうせ園遊会の模擬店だなんて、最初からぞんざいにするのではなく、機械の蕎麦はどれほど有名な店の仕入れでも同じである。そこへ行くと手打ちは、機械打ちと同一時間を置いても、そんな心配はない。

 蕎麦好きに言わせると、機械打ちと手打ちの店では、食わぬうちからすでに匂いが違うから判ると言っている。

 悲しい事にはその手打ち蕎麦の店は、年々減少して行く、看板には立派に手打ち生蕎麦と記されながら、案に相違の機械打ちを食わせる店さえある。香気なら、風味なら、格段の相違ある手打ちが、だんだんに無くなって、機械打ち全盛になって行くのは、蕎麦を食べる人が、あまりに無関心過ぎる結果である。

 腹の足しにさえなれば、味はどうでもいいというのは別として、本当に蕎麦の風味を愛好するさまざまの階級の人々の集まりが、時折手打ち蕎麦の店で催され、手打ち蕎麦のために気を吐いていることは、はなはだ結構な企てである。

 せめて現在、東京市中に幾軒もない手打ちをやっている店だけは、永久に昔のままの状態を保って貰いたい。そうでないと、蕎麦はただ口腹を満たすに過ぎぬ全くの代用食となってしまって、千年の古い歴史のある日本特有の食品を、無価値なものにしてしまうのが、残念であるから。


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