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  口入宿 くちいれやど と板前(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

  蕎麦屋専業の口入宿は、東京市内の各所にあった。明治三十年頃まで、代表的の宿が十六件あって、これらはいずれも大親分株の人々であった。それが受け持ち区域を定めて、職人や出前持ちの 周旋 しゅうせん をしていたので、年中宿の二階には、若い者が何人か寄食していたものである。

  深川六軒掘 村田七右衛門
  京橋具足町 美男
  神田和泉町 馬の鞍
  芝芝口 芝口
  芝西久保 大芝
  神田美倉橋通  弁慶(石田屋)
  本郷春木町 尾張屋伊之助
  麹町 青柳
  神田三河町 小安
  下谷徒士町 土手下
  浅草寿町 原田屋

   という以上の宿が、特に盛大に口入稼業をして、名の高い親方であった。この中で京橋具足町の美男は、一時小川萬吉が株を譲り受けたけれど、やがてそれをまた他に譲ってしまい、現在は 大鋸町 おがちよう に移転している。

 ともかくも馬の鞍だとか弁慶だとかいう、通称の方が蕎麦屋仲間には、通じがよかったために、当時それらの宿を知っている職人でさえ、判然と氏名を知らないのである。

 今では浅草鳥越の浅井、神田豊島町の江守、日本橋馬喰町伊勢金などという宿が、手広く営業をしている。

 口入宿を頼って、全く経験のない素人が、 周旋 しゅうせん を頼みに行くと、一通りの仕事を親方が教えたものであった。これなら勤まると、見込みが付けば、まず最初はあまり忙しくない店に向けて住み込ませ、実地に習得させるのが、例の如くになっていた。

 出前持はあまり出入りはないが、板前の職人は、店から店を渡って歩く者が多かった。それは一つは自分の腕を磨くために、そここに点々として住み替えるような仕事に熱心な者もあろうが、その実は多くは技倆に 自惚 うぬぼれ れて、何か気に入らないことがあれば、すぐに飛び出して、他で働くという習慣があったものだ。

 職人の腕の優劣に、非常な 懸隔 けんかく のあったことは、他の一般の職人と同様であった。「冬板前の夏働きいつも変わらぬお釜さん」という言葉が残っている如く、冬だけしか板前として勤まらないような職人がいたものである。もっとも今とは異なって、製麺機の出来ない頃は、夏の食品としての冷麦は、職人の手によって製せられたものであった。

 ところがこの冷麦は、蕎麦に比べて、いっそう薄く伸すので熟練の手腕でなければ、うまく出来なかったために、夏になって冷麦の需要が多くなると、技倆の無い板前は、釜の方に廻って働くか、雑用をするようになるので、未熟な板前を風刺した言葉が生まれたのである。

 しかし現代ではその苦労はなくなった。冷麦は一般に製麺機械によって製造されているから、板前は夏も冬も働く事に変わりはなくなった。

 職人はただ腕達者であればよいのではない。荒仕事と小仕事と二別されている。むやみに数をこなすことに心がける者は、品質の粗悪な蕎麦打ちに従事して、練習を積んだものである。

 それは下等の蕎麦を商う店では、サナゴという蕎麦の糠と饂飩粉で造るから、伸びが悪くて切れやすくて、打ちにくいことおびただしい、そういう造りにくい材料で修行したものだ。これで きた えあげた職人なら、どこへ行ったって、決して 退 けをとるような事はなかった。

 けれどもそれはただ、蕎麦を達者に打つというに とど まって、上等に造ったり細く打ったりするのは、不得手であった。つまり仕事はぞんざいで早いというに過ぎないのである。したがってこういう職人は一流の店では雇わなかった。

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