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 値段の変遷(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

 貞享年間の六文というのが、記録に残っている最も安い値段である。それが元禄に七文となり、寛文年間には八文となったのが、慶応に至って、諸物価の騰貴から、二十文となっている。寛文から慶応までの間にだって、無論段々に値上げになっていたのだが、八文から二十文までの、変遷については不明である。

 万延元年に江戸府内の蕎麦屋の数は、三千七百六十三店で、この常店以外に、夜鷹蕎麦があったのだから、驚くほど沢山過ぎて、当時の江戸の人口から見ても、この軒数は多過ぎるように思われるが、しかし値上げ許可について、慶応年間にこれだけの蕎麦屋が記名調印の願書を提出したと、記録に記してある。

 もりかけ一杯二十文の値上げは、至当の要求と認められて、ただちに許された。その時分こんな落首があった。
  蕎麦屋さん二十になってまだこもり

 天保銭一枚を持って、髪結床に行って、湯に入った帰りには、残った銭で蕎麦を食うことが出来たという話は、今でもよく聞く話である。

 したがって上等な食物ではなかった。『昔々物語』という書にも、
  下々買い食い、貴人には食ふものなし。
 などと記してある。

 とにかく安価な手軽な食物であったために、誰にも喜ばれたのに違いないが、二十文から二十四文となって、やがて明治の初年頃に五厘となった。同十年前後八厘となったオヤマカチャンリンの唄が流行して「オヤマカチャンリン、そばやの風鈴、もりかけ八厘」と唄ったものだ。その後二十年頃までは八厘で、種物はすべて二銭五厘が、普通の相場だった。

 二十年には一銭となり、二十七年には一銭二厘となり、三十一年に一銭五厘から一銭八厘に値上げされている。それに準じて、種物は三銭から四銭であった。

 そして三十六年までは、一銭八厘のままで、別段に値上げはしていないようであったのが、三十七年に二銭、三十九年に二銭五厘、四十年に三銭と、物価に応じて段々に値が上がって行った。

 昔からその頃までは、蕎麦と湯銭と塩鮭の切身との三種が、同一の値段で併行していたものであった。それが現代では銭湯だけが、五銭で居据わりのままでいて、鮭と蕎麦とが高くなっている。

 しかし値段も必ず一定されてはいず、普通もりかけは十銭が相場となっているが、一杯十五銭で売っている店があるし、場末や郡部の駄蕎麦では、四銭なんて店もあるけれども、それは量も少ない上に、すべてがはなはだしく劣等だから、問題にならない。八銭で売っている店は、相応に多いようである。

 値段のかく不統一なのは、組合がそれぞれ異なっているのと、駄蕎麦屋はその仲間だけの組合が、独立しているから、自然まちまちに値を崩して勝手に売れる。

 今の大きな店は、組合の規定通りに、お互いに商業道徳を守っているが、以前はよく新店が出来ると、広告手段として、値段を安くし競争が行われたものだ。

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