二八蕎麦(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)
二八蕎麦の語は、草双紙や随筆などのうちには、しばしば見出される名称で、その言葉の起こりは、寛文四年からだそうである。
この名称について、説が二つに区別されている。一つは一杯の値が八文ずつで、それを二杯食って十六文になるから、値段をそのままに冠して呼ぶようになったのだといい、他の一説は、蕎麦粉二分、
饂飩粉
八分の割合で製造するからだと、普通にはいわれている。
二説のいずれを信じてよいが、直ちに判断を下すことは困難なことである。『
善庵
随筆』には、
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蕎麦は湯に入れて
烹
れば切々になりて、片をなすべからず。よって思うに当時二八蕎麦といいて、蕎麦二分、饂飩粉八分、八分と二分との調合にするは、饂飩粉を多くして、切れざるようにせしにやあらん。今の人二八というは値のことにて、今蕎麦一膳を十六文に売るゆえに二八十六文の義と心得るは誤なり、其頃は諸品まだ下直ゆえ、蕎麦の値も十六文にてはあるまじ。寛文八年に八文、貞享に六文、元禄に
蒸籠
むしそば切一膳七文にて、十六文ならざりしを知るべし。 |
と値段から起こった名でないことを、しきりに主張している。この論は果たして正しいか否かは、別問題として、その後、寛文八年にあたかも蕎麦の値が八文になったので、かれこれを混じたものではないかとも、考える事が出来るのである。 しかし殊更に、蕎麦粉と饂飩粉の調合法を、言ったものという見解も、すこし
穿
ち過ぎて、
半可通
の言い草らしくもある。やはり感じも言葉の出所も、値段から来たという方が、よほど自然らしく思われる。 |