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蕎麦の製法に就いて 幸堂得知 (村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年) 明治十四年中故高畠藍泉氏(三世種彦)読売新聞の社員たりし時、諸方の蕎麦屋に生蕎麦という看板を掲げあるを笑い、ある日の紙上へ、世間に真の生蕎麦を製する家は至って少ない、多くは皆米の粉入れて硬く食わせるのだと書きしより、ある有名の蕎麦屋の主人がたいそう憤って弁駁を出せり。それに続いて敵味方の野次馬連が投書して十余日紙上を賑わせしが、ある人の仲裁にて円滑に局を結べり。しかれども当初はその後へその後へと集まりしに、高畠氏は相手の蕎麦屋の主人が仲裁某氏の添書を持参して来たり互いに笑って済し上ならばとてこれを一括して予に送れり。この頃反古の中よりその没書を見当たりしかば、いかなるものかと初めてその封を切って見るに投書十三通あり。中に同業者より寄せたるもあり。素人より寄せたるもあれど、却って素人の投書中に取るべきものあれば後の製法に要する条をここに挙ぐべし。
これは公平の説なり、さてまた相手方の某蕎麦屋の再駁に、
この文中海老や鯛は蕎麦に馴染みのよいものとは道理の説なれど、たとえ粘着のなき魚肉なりとも打てぬという事なし。されば米の粉を内二割ぐらい入れたればとてさほど手際のむつかしきものにもあらず、しかし田舎より素人家へ到来の荒挽粉にては到底駄目なり。ここにまたある蕎麦屋より寄せたるものあり。
この蕎麦屋さんはひとり角力を取るようなもので大丈夫な言い草なり。蕎麦に饂飩粉を二割三割交ぜればとて、粉で見ても打ち上げて味おうても(饂飩粉は蕎麦の一番の挽粉へ交ぜその上へ二番をおとしてよくかき交ぜるなり。かくすればたとえ営業人なりとも)決して分かるものにあらず。もしその家に至りこの検査を尽くさんと思えば、まず抜きを挽くより見張り、それを打たせて食わねば真の生蕎麦とは認め難し。またこの蕎麦に鶏卵のつなぎも入れずに打てば、長きものとて五寸に過ぎたるものの出来得べきはずはなし。また一報あり。
この投書、蕎波・蕎麦の因縁は如何や知るによしなけれども、米と飯の両用法は至極道理と思われる。今また素人の投書にして取るべき一報あり。
これは予も試し見たる事ありしが至極佳品なり。なるほど売り物とするに利益は薄けれど、真の蕎麦を好むものは手製にして嗜むも可ならん。 かく証を挙げ論じ来りてさて純粋の生蕎麦は如何というに、生一本の蕎麦は旨味のなきものなり。信州の更科、武州の深大寺はここに言わねど、田舎より到来の蕎麦粉を以て純粋の蕎麦切を製するに、第一に色が黒し。これは三番四番の粉を入れるが故なり。東京の手打蕎麦屋は一番二番の篩に止めるゆえ色は白し。駄蕎麦屋は万年粉(万年粉というはたとえ三番までにして止めても四番をまた後の新粉と共に挽くゆえに斯く号くるなり)を使う家多ければ上がりの純白なるは稀なり。 かつ篩も東京の如き細かきものを用いざれば挽粉が粗く、いかに手練の者が打つとてもつなぎなしでは打てまじ。一体蕎麦というものは饂飩粉を交ぜて旨味を持つなり。蕎麦のみに限らず、何品も生一本で良きものはなし。 予が壮年の頃、羊毛ばかりにて筆を作らせんとある職人に命じたれば、職人は馬の毛を少し交ぜめせんければ御用には立ちますまいという。予はその言を打ち消し、なんでもかでもと強て作らせ、物書きて見るにべたりべたりとして自由ならず。ここに初めて生一本の用に立たぬ事を覚り、職人に降参してしかるべきようにと結い直させて無類上等の筆を得たる事ありき。 また前の投書中にもある人の言えるには、ちょっと譬えて申さば壁を塗るに中塗というて砂を以て塗るゆえ、これを砂摺と称うれど、砂ばかりにては塗る事かなわず、よってつなぎに粘土(上等は鹿角菜を用う)を入れて塗るなり。されば砂泥鹿角菜塗とこそいうべかりけるに、ただ砂摺とのみにて通ず。しかれば生蕎麦につなぎのため饂飩粉を加えればとて、生蕎麦の生の字を取るにも及ぶまじと思う云々と見えたり。 あまりに生の字を好み過ぎれば、生の字変じて奇の字となるなり。 予は蕎麦の混交物につき善悪を明らかにせんとて、このほどある職人を迎え種々の割り方にて製し試みたれば、ことごとく左に掲げ世間蕎麦好き諸君の手引草となすべし。
右十一種の内硬軟の口にかなうものはニ八の蕎麦なり。(予は饂飩粉なるものを蕎麦の一家と思い、他のつなぎは親切なる朋友なりと思う。いかに親切なりとも朋友を一家親類とは言われず。一家たる饂飩粉を交うるに、何ぞ不可とするものあらんや。されば同じ暖簾の饂飩粉を交じえたるものを生蕎麦というもあえて差し支えはなからんと思うなり)。また友つなぎの生蕎麦は格別なり。しかれどもその名を尊む素人の熱望ほどには佳味ならず。次に葛つなぎなり。製し方によって風味は高尚なり。鶏卵つなぎ・薯蕷つなぎはその次に位す。味淡泊なり。粘つなぎ・米割は大いに劣る。半割は蕎麦の世界を離れたるようなれど、しんなりとして一風の味あり。殊に翌日までものびるという心遣いなくてよし。魚切・卵切・茶蕎麦は贅沢物にして一方の高味はあれど、蕎麦通の好むものにあらじ。予はこの十一種の内なかんずく他のつなぎものなしのニ八蕎麦を望む。昨今駄蕎麦屋まで一般に生蕎麦の看板を掲げたれば、誰かひとりニ八の看板を出し、真のニ八蕎麦を製するものはなきか、あらば蕎麦通の愛する事予の保障するところなり。 さてまた蕎麦の打ち方は、昔より今に至るまで一般に手切りなり。もっとも手切りの内にコマ切りというものあり(コマ切りというは、左の圧え手に三指だけの小さき板を置いて打つなり)。現今は多くこれを用うると聞けり。その他に近頃機械切りというものも出来たり、これは佐賀県麺機製造合資会社にて専売特許を得たるものにして、延すも打つも素人の手にて太打ち、細打ち自由自在になる機械なり。代価は百五十円より二百二十五円ぐらいまである由に聞き及びぬ。この製し方も見たり、また風味も試みしが、いかにも早くして足も長く出来、至って重宝の品と思わる。味の可不可は言わずもがな、たとえて見れば昔の煙草と今の莨の如く、手切りと機械切りの差別は現然なり。 したがってまた煮汁は大事なものなり。何ほど蕎麦を吟味精製しても煮汁が悪ければ味を損ず、この製し方は、似出し上がりにて五合、醤油あく抜きにして煮切り三合五勺、味醂一合五勺へ三盆砂糖少々入れて煮切り、これをだし汁に合して煮立てるなり。もっとも蕎麦の割によって醤油の加減あり、魚切、卵切、茶蕎麦には醤油・味醂を減じて淡くし、蕎麦掻には醤油・味醂を加えて濃くするなり。 蕎麦の薬味は大根の絞り汁に限ると知るべし。 蕎麦の製法はこの他に未だ種々あれども、概略前に掲げたる仕方にて出来得べし。さりながら割によって捏ね練り方と延し方に長短あり。たとえば友つなぎ、ニ八は手早くせねば足を持たぬもの、半割はよく捏ねて味を出すなり。また茹で方にも長短あれど、これは筆にて尽くすこと能わず、口伝のほかなし。とにかく釜下の薪、火の配り方が肝要なり。よく注意すべし。 (明治三十二年一月『太陽』第五巻第一号)
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