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蕎麦打ちの話 (村瀬忠太郎著 蕎麦通 昭和5年) 昔は殻蕎麦五斗すなわちヌキ四斗五升を一俵としたものだが、今ではすっかり粉に製粉され、一袋六貫目(正味五貫九百目)となって、蕎麦屋の店に配達されるのだから、全くどれほど手間が省けて世話がないか知れない。 花崗石の石臼で、殻蕎麦をごりごりと挽いた悠長な昔の方が人の労力を思うせいか、蕎麦の味がうまかったようだ。何馬力だか知れぬモーターで、瞬く間に挽きつぶして、どしどし粉にしてしまうのは、大量生産の能力の上から、当然な仕事には違いないが、やっぱり石臼で手挽きにしたものか、水車で緩やかに粉に挽いた方が、味の優劣如何はしばらく問題ないとしても、蕎麦としての感じが現れて来るように思われる。
味に優劣のあることを言えば、以前はいずれの店でも大抵、自分のところで粉を挽いていた。もちろん、今日ほど至るところに製粉会社もなかったからではあろうけれど、殻蕎麦の俵を山と積み上げておいて使い道によって適当の挽き方をしたものであった。だから製粉機にかけた粉よりも、手挽きの方が利益を度外視すれば、たしかに優れたものに違いないのである。 しかし営業である以上、経費と世話の省ける品を仕入れるのは当然だから、この論は単に理想とするだけで、成立するはずはない。 手挽きの当時は、四斗五升のヌキを、晒すと分量は非常に減ずる。最上のものは二斗五升しか粉にして取れぬが、最も劣等な粉は四斗である。これは
篩は四斗引き、三斗引き、二斗五升引きの三種あって、細かい篩にかけたものは粉の収量が少なく、疎い目の篩は粉の量が多いわけで、粉の良否はこれで分ける。 最上の二斗五升引きの粉は更科といっていて、これを指先で摘まんで揉むと、非常に滑らかで、ぎすぎすときしんで、ちょうど片栗粉と同じようだが、粗悪な粉はざらざらとして、手ざわりの感じがよくない。最も下等な粉を『万年』といって、これは少しの屑も出さないもので、普通駄蕎麦は四斗五升のヌキから、一升の屑を出したものを用いていたのが通例だった。四斗五升の中から、わずかに一升の屑を出しても、色の白さが違って来るほどだ。二斗五升引きの更科が、いかに優良な物かは説くまでもない。 畑から収穫したままで、乾かした黒い殻のついたものを、殻蕎麦といい、その黒い上皮を剥いたものは、薄青いあま皮に包まれていて、これをヌキと言っている。 地方で打つ蕎麦の黒いのは、殻ぐるみ挽きつぶした粉で造るからで、東京では単に田舎そばといっているが、それはそれだけのもので最上の風味とは言えない。私の店で売り出している田舎そばは、名こそ同じでも粉の製法に特異の点があるので、まるで色沢が違い風味も違っている。一部の蕎麦通たちから、歓迎を受けて近頃評判になっているのは、普通のものより太めにしてつなぎに
田舎で食う蕎麦そのものは、うまいものが多いが、汁が悪くって、せっかくの蕎麦を台なしにしてしまうとは、普通誰でも味わった実感から来た言葉だ。そしてその田舎の蕎麦を、東京の汁で喰ったら、さぞうまいだろうというのは、必ず田舎蕎麦に対するあこがれである。それを実現して、一種の嗜好に適するように工夫しているのだから、必定蕎麦党に喜ばれるわけだ。 一体蕎麦を打つ割は、一斗の粉を標準にしたもので、それにつなぎに饂飩粉を加えて、伸しやすくってぼつぼつと切れぬようにしている。店によってつなぎを入れる割合は違うが、三つの割だといえば、一斗の蕎麦粉に三升の饂飩粉を入れて、打つことである。 普通以下の駄蕎麦になると、饂飩粉を十三割も混じて打つ。肝心な蕎麦粉よりも饂飩粉の方が、三升も多いのだから、蕎麦の味のしないのは当然だ。一杯四銭や五銭で売っている駄蕎麦は大抵その辺のものである。うまいまずいという味を論外にして、こういうものはただ腹を満たすだけの代用食と思って食うべき代物だ。 |
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