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蕎麦の食い方を書いた小説 夏目漱石『吾輩は猫である』(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年) 

 御三がお客様の御誂が参りましたと、二個の笊蕎麦を座敷に持ってくる。
「奥さん、是が僕の自弁の御馳走ですよ。一寸御免蒙って、ここでぱくつく事に致しますから」
 と丁寧にお辞儀する。真面目な様な 巫山戯 ふざけ た様な動作だから、細君も対応に窮したと見えて、
「さあどうぞ」
 と軽く返事をしたぎり拝見している。主人は漸く写真から目を放して、
「君此の暑いのに蕎麦は毒だぜ」
 といった。
「なあに大丈夫、好きなものは滅多に あた るもんじゃない」
 と蒸籠の蓋をとる。
「打ち立ては有難いな。蕎麦の延びたのと、人間の間の抜けたのは由来 頼母 たのも しくないもんだよ」
 と薬味をツユの中に入れて無茶苦茶に掻き廻す。
「君そんなに山葵を入れると辛いぜ」
 と主人が心配そうに注意した。
「蕎麦はツユと山葵で食うもんだあね。君は蕎麦が嫌いなんだろう」
「僕は饂飩が好きだ」
「饂飩は馬子が食うもんだ。蕎麦の味を解さない人程気の毒な事はない」
 といい なが ら、杉箸をむざと突き込んで出来るだけ多くの分量を二寸 ばか りの高さにしゃくい上げた。

「奥さん、蕎麦を食うにも色々流儀がありますがね。初心の者に限って、 無暗 むやみ にツユを着けて、そうして口の中でくちゃくちゃ っていますね。あれじゃ蕎麦の味はないですよ。何でも、こう、一しゃくいに引っ掛けてね」
 と云いつつ箸を上げると、長い奴が勢揃いをして一尺 ばか り空中に釣るし上げられる。迷亭先生もう善かろうと思って下を見ると、まだ十二三本の尾が蒸籠の底を離れないで簀垂れの上に 纏綿 てんめん している。

「こいつは長いな、どうです奥さん、この長さ加減は」
 と又奥さんに相いの手を要求する。奥さんは、
「長いもので御座いますね」
 とさも感心したらしい返事をする。

「此の長い奴へつゆを三分一つけて、一口に飲んで仕舞うんだね。噛んじゃいけない。噛んじゃ蕎麦の味がなくなる。つるつると咽喉を滑り込む所が値打ちだよ」
 と思い切って箸を高く上げると蕎麦は ようや くの事で地を離れた。

 左手に受ける茶碗の中へ、箸を少し宛落として、尻尾の先から段々に浸すと、アーキミヂスの理論に因って、蕎麦の浸った分量だけツユの嵩が増してくる。所が茶碗の中には元からツユが八分目入っているから、迷亭の箸にかかった蕎麦の四半分も浸らない先に茶碗はツユで一杯になって仕舞った。迷亭の箸は茶碗を去る五寸の上に至ってぴたりと留まったきり暫く動かない。動かないのも無理はない。少しでも卸せばツユが溢れる計りである。迷亭も ここ に至って少し躊躇の体であったが、 たちま ち脱兎の勢いを以て、口を箸の方へ持って行ったと思う間もなく、つるつるちゅうと音がして喉笛が一二度上下へ無理に動いたら箸の先の蕎麦は消えてなくなって居た。見ると迷亭君の両眼から涙の様なものが一二滴眼尻から頬へ流れ出した。山葵が利いたものか、飲み込むのに骨が折れたものか是は未だに判然しない。

「感心だなあ。よくそんなに一どきに飲み込めたものだ」
 と主人が敬服すると、
「お見事です事ねえ」
 と細君も迷亭の手際を激賞した。迷亭は何も云わないで箸を置いて胸を二三度 たた いたが、
「奥さん、笊は大抵三口半か四口で食うんですよね。それより手数を掛けちゃ旨く食えませんよ」
 とハンケチで口を拭いて一寸一息を入れている。

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