蕎麦全書 巻之上  寛延四年 日新舎友蕎子 著
蕎麦全書もくじ

そば後蕎麦湯を出す事

予按るに、先年所用の事ありて信州諏訪を通る事有り。信濃そばとて名物を聞居ければ、旅宿にてそばを所望せしに、其そば製大きによし。成程名物程の事有り。然るにそば後直に蕎麦湯を出して飲しむ。

予、主人に問て云、江戸にてはそば切を人に振舞時、そばの後、定って吸物とて豆腐の味噌煮を出す。麪毒を解すと云伝ふ。然るに今、吸物など出さずして、直にそば湯を出すは其分け有やと云へば、主人云けるは、そば後直に蕎麦湯を飲む時は食するそば直に下腹に落着て、たとえ過食すとも胸透きて腹意大きによろしき物也。当地の風俗皆か様なりとて、そば湯の後に味噌の吸物など出す事、其外の饗応、江戸に替る事なし。只猪口に蕎麦湯を出す而已替り也。予按るに、そば後直にそば湯を飲めば、同気相求めて順下する事と見えたり。

其後、気を付れば、成程食能落着て腹意の宣敷事を覚へたり。帰郷の後、信濃風とてそば切を人々に振廻ふ時分には、必角そば後直にそば湯を出して饗応せしに、江戸などにてはせぬ事故、中々珍敷一興なりとて皆賞しけり。

然るに予、近年そば湯を飲むに腹透ずして却て腹のはる様に覚へて意よからず。いかがしたる事にやと心易き人に語れば、彼人云様、は外の事にては有まじ。近来わけてそばを好まれ、日々に食し、其上過食の故ならんと云へり。左も有らんかし。

そばは気和し性平にして人に可なり。故に三、五年に至る者、及び寒曝の者を用ひて珍とす。或は好き蕎麦の遅く熟する者を殻を連ねて俵子に入れ、堅く封じて寒き処に置時は五、六年を経ても破れず。寒曝しは臘月連殻の好き蕎麦を用いて水に浸す事三十日、立春の日取出して曝し乾し、収め蔵す。用ゆる時、杵磨してとなして食ふ。尤人に当らず。或は蕎麦旧垢をさる事、亦小豆に滅せず。故に衣を洗ひ髪を洗ふ。然れ共、勢悍故に物を損じ易き而已

予按るに、蕎麦亦は寒晒しそばは、味ひ軽く性平にして佳なる物なり。此蓄へ様大きによし。新そばは格別又其味ひ甘美にしてよろしき也。人により新そばを食すれば必泄下する事あり。然れ共、少々食して害をなす事なし。先は新蕎麦は人々好む物なれば、多くは過食強食するゆへなり。

  蕎麦全書 巻之上終

 

 

 

蕎麦全書もくじ
喜心庵のホームページ