二八そばの由来 |
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2009年 9月1日 | |||||
結論を先に言ってしまえば、二八そばの語源というのは、わからないのだそうです。 いろいろな説はありますが、どれも決め手に欠けるともうしますか、誰もを納得させるにいたっていないのです。どれも不完全なんではありますが、そのなかでも面白そうな説をいくつか紹介します。 ■ 配合率説 江戸時代も今もそうなんですけど、2つのものを混ぜる時には、主原料の方を先に言います。 たとえば「九一そば」というのをごぞんじでしょうか?そば粉9割小麦粉1割で打ちました、というそばのことなんですけど、そば粉の9割の方がさきにきていますよね。 もし、そば粉8割というのなら、「 二八そば 」ではなくて「 八二そば 」と言わなくてはなりません。 だったら「 二八そば 」というのは、そば粉2割、小麦粉8割ということになりますよね。 実は江戸時代のそばは、そういうそばだったのです。寛延四年(1751年)に日新舎友蕎子という人が書いた『蕎麦全書』にはこう書いています。
ようするに、小麦粉4升にそば粉1升は、小麦粉8割、そば粉2割ですから、これは割合でいえばまさしく「 二八そば 」ということになります。 ヤッターこれで解決!と言いたいところですが、実は江戸時代には「 二八うどん 」という うどんもあったのです。うどんは小麦粉だけで作りますので、そば粉と小麦粉の割合では説明がつかなくなります。 ■ 代価説 江戸時代には、そばとうどんは同じ値段というのが常識ですから、「二八うどん」という名称も合理的です。また、安さをウリにするそば屋には、12文の「二六そば」というものもありました。これも代価説の根拠になっています。 しかしこの説にも欠点があります。そばの値段の相場が16文になったのは19世紀初めのことで、二八そばという言葉が使われるようになった18世紀の初め頃は、もっと安かったのです。
■ 笠井俊彌説(1人前が2杯説) 「けんどん」とは、現代人にとってはあたりまえのことすぎてかえって理解しづらいかもしれませんが、簡単にいえば、江戸時代の飲食店のサービススタイルで、店側が1人前はこれだけですよと量を決めて1人前分の値段をつけるやりかたです。 っていうか、 これって今では普通ですよね。 でも昔は、店が決めた1人前はこれだけですよっていうのはなくて、お客が好きなだけお替わりをして、何杯でも食べたいだけ食べるのが常識だったんです。 当時は「なんだい、1人前ってこれっぽっちかい? ケチくせえな」といって「 慳 貪 」という字をあてることもありました。 「けんどん」の語源についてもよくわかっていません。けんどん屋で使っていた出前用の箱のふたがスライド式だったので、スライド式を意味する「倹飩」からきているという説。またけちくさいから「慳貪」だという説などもあります。 これ以上説明するとややこしくなりますので、けんどんについては、このくらいにしたいと思います。 さて笠井俊彌説にもどります。江戸時代18世紀の享保(1716年 ~ 1735年)中頃、「二八けんどん」を看板にかかげるそば店があらわれます。 「けんどん」ですから1人前の量を決めて商売をしていたわけですが、このそばが、2杯1組で1人前だった、つまり二八の二は2杯の二だったというのが、この笠井俊彌説です。 では、二八の八はなんでしょうか? これは値段のことだというのがこの説です。 笠井俊彌氏は1人前のそばが2杯で18文。で 二・十八 。そば2杯が十文以上するのはわかりきったことなので、まん中の十は、これを省略して 二・八 としたのだ、と論じています。 1人前が2杯だったという着眼点がおもしろいとおもいます。江戸古典落語でも屋台のそば屋で「1ぱいですまねえな」とお客が謝りながら注文する場面がありますから、そばは2杯食べるものという常識があったとしてもおかしくありません。 しかしこの説も、二八けんどんそばの値段が18文だったはっきりとした証拠がありませんので決め手には欠けます。
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参考資料 : 蕎麦の事典(新島繁著 柴田書店) 蕎麦と江戸文化(笠井俊彌著 雄山閣出版) 「蕎麦全書」伝(藤村和夫注解 新島繁校注 ハート出版) |
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