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2011年 7月 1日 訂正2012年6月27日 |
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■ 白いそば ソバの実は中心にはもろくて白い部分,周辺に固くて茶色い部分があります。製粉能力の高い大きな電動臼で碾けば,白い部分も茶色い部分も一緒に粉になります。 しかし、軽い手碾き臼で、あるいは重い電動臼でも上臼下臼の隙間をあけるなどして製粉能力をわざと弱めて碾くと,中心のもろくて白い部分だけを粉にすることができます。これが一番粉、あるいは更科粉(さらしなこ)とよばれている白いそば粉です。 白いそばは、この白いそば粉で打ちます。だだこの白いそば粉には粘りがほとんどないので,生粉打ち(十割)は湯ごねや友つなぎなど特殊技法を使わないと打てません。
■ さらしなそばとは さらしなそばは白いそばのことと一般に言われていますが,地方によっては普通の蕎麦や黒いそばをさらしなそばと言っているところもあります。 食材事典やそば事典によると,さらしな粉は,以下のように説明されています。
「さら」は今でも新しいとか初めて使うものに使います。初めに出てくる品(しな)ということで一番粉のことです。
いろいろな説があるのがややこしそうです。 ■ そばが白いとはどういうことか ソバ殻を取り除いた抜挽のそば粉で打ったそばは薄茶色です。まあこれは今ではごく普通のそばです。またソバ殻のついたままのソバの実を碾いた粉で打ったそばば黒くなります。 一言で「白いそば」といっても,何をもって白いと言っているのか実にあいまいです。たとえば真っ黒なそばしか食べたことのない人が、もしソバ殻を取り除いて碾いた粉で打ったそばを見たとしたらどうでしょう? 普通の薄茶色のそばであったとしても「白い!」と思うのではないでしょうか。 古い記録に白いそばと書いてあっても、本当に白だったのか。白いそばの起源をたとってみるとこの問題にぶちあたります。 ■ 18世紀の中頃の江戸では 18世紀の中頃に書かれた『蕎麦全書』(日新舎友蕎子著)の記述から考察してみます。 同書によれば,以下のことが分かります。
製造技法としては可能でも,白いそばでは営業的には難しかったのかもしれません。
■ 道光庵の白いそばはさらしなそばだったのか ネットでいろいろ調べていると道光庵で出していたそばが白かったというのを見つけました。しかもそれが蒸しそばだったいうのです。 道光庵はそば屋ではありません。お寺です。正式には浄土宗一心山極楽寺称往院寺中道光庵といいます。 享保年間から半世紀以上そばで有名な寺として知られ,安永6年1777年『富貴地座位』という江戸,京都,大坂の名物のランキング本に江戸そば部門1位になると行列まで出来るようになり,ついに1786年,称往院から寺の静穏を妨げるとして「不許蕎麦」の処分を受けました。 ちなみにそば屋が店の名前に庵を付けるようになったのも,道光庵にあやかったものといわれています。 菊岡沾涼(キクオカセンリョウ)という俳人が1735年頃書いた『続江戸砂子温故名跡誌』に「生得,この庵主,蕎麦切を常に好むが故に自然とその功を得たり。当庵僧家の事なれば,尤も魚類を忌む。絞り汁いたって辛し。これを矩模とす。粉潔白にして甚だ好味也。」とあるそうです。 原典に当たることが出来なかったので,これだけがたよりなのですが,潔白がはたして白い一番粉(更科粉)を指すのか,それともそば殻を碾きこまない上等な粉を指すのか分かりません。 道光庵については『蕎麦全書』もかなりの紙面をさいて説明していますが,「そばの盛替が少なく箸なしで食べる」と,まるで椀子そばのような描写もあるのですが,そばが白いとの描写はありません。 それらのことから道光庵で使っていたそば粉は,さらしな粉ではなくて、そば殻を碾きこまない上等な粉であったのではないかと思います。 出典は分からないのですが蒸しそばだったというのもどうかと思います。 蒸しそばについては詳しい製法が残っていないので,我流なのですが,試してみました。 小麦粉を少しでも混ぜると極端にまずくなりますが,そば粉100%ならけっこう美味です。普通のそば粉なら,香り,甘みが強くサクッという感じの歯ざわりは,好む通人もいるのではないかと思います。しかし更科粉では不味くは無いけど評判になるほどかなという感じでした。もし更科粉を使ったそばなら蒸しそばは無いと思います。
■ 更科そばは白いそばだったのか 永坂更科総本家布屋太兵衛という更科そばの名店があります。更科といえば白いそばの代名詞にもなっているくらいですが,最初から白いそばだったのでしょうか? 岩崎信也著『のれんの系図』には,明治時代に更科本家四代目の女将が,数寄屋橋で出していた白髪そばを見て白いそばを始めたと書いています。では,それ以前はどんなそばだったのでしょうか。一番粉の白っぽいそばだったのではないかとおもいますが,よくわかりません。 「更科のそば好けれど高稲荷 森を眺めて二度とこんこん」江戸時代の狂歌師蜀山人が永坂更科布屋さんでそばを食べたときに詠んだと伝えられる狂歌です。そばの白さについては何も言っていません。 ■ なぜ更科そばの更科が更級ではなく更科なのか 永坂更科総本家布屋太兵衛という更科そばの名店があります。戦後,店ものれんも人手に渡してしまいましたが,直系の御子孫が別に更科総本家ののれんをかけていらっしゃいます。御子孫が伝える布屋の由来をネットでいくつか見つけることが出来ましたが,ちょっと微妙なのですが私なりに検証してみました。
というのが多くのHPの共通点です。 ここで疑問なのが大名の保科家です。HPでは保科家が信州高遠(たかとう)藩主とするもの,信州更級地方の領主とするもの,会津藩主とするもの等いろいろありました。 保科家はたしかに信州高遠藩3万石の領主であったこともあります。しかし永坂更科布屋創業の百年まえに会津23万石の藩主となり名字も松平に改めています。 松平を名乗っている殿様が、はたして「保科家の科の字をやる」などと言うでしょうか? そこでちょっと横道にそれますが保科家について調べてみました。
■ 保科家 保科家といえば,保科正之(1611~1673)が有名です。正之は2代将軍徳川秀忠が浮気してもうけた隠し子です。NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」にもちょっとでてきましたね。 さてその正之ですが高遠藩保科家に養子にだされます。保科家は徳川秀忠の子である正之に家督をゆずります。もともと保科家には正貞という若様がいたのですが,養子の正之が藩主となったので、居場所のなくなった正貞は家出して浪人になります。 8年の浪人暮らしの後,正貞は1629年に徳川家直参3000石旗本として召し抱えられます。そしてその後,上総国飯野藩1万7千石があたえられ,保科家再興をはたします。ちなみに上総国飯野藩は現在の千葉県富津市にあたります。 いっぽう高遠藩保科家の藩主となった保科正之ですが,会津藩23万石へと大出世。正之の死後にはなりますが,1696年になると名字も保科から松平に改めます。 ちなみに, 飯野藩保科家の江戸屋敷は永坂にあったそうです。そんなこんなを考えると,「保科家の科の字をやる」と言った殿様は上総国(千葉県)飯野藩の殿様だったにちがいありません。 永坂更科が開業した1789年当時,飯野藩は7代目藩主保科正率(まさのり)です。出入りの商人と気軽に話を交わすとは,なんとも気さくなお殿様です。 上総国飯野藩保科家も遠く先祖を遡れば信州高遠に縁があるといえばいえないこともありません。とはいえ更級地方は信州の北部,高遠は信州の南部。信州のような山国では結構な距離です。 そう考えると保科の殿様と布屋太兵衛さんに地縁があるようには思えません。出身地については保科家や布屋を無理から信州に結び付けようとしているような気もします。 ■ 蜀山人の食べた白いそば 変わりそばで有名な足利一茶庵の創業者で,昭和のそば打ち名人,片倉康雄さんは,蜀山人が多摩川川普請の役人だったとき,日野本郷の佐藤彦右衛門宅で真白いそばを馳走になり,いたく感銘したことを書き残している。これが最も古い真白いそばの記述であると著書の中で書いております。 蜀山人は歴史的有名人ですから説明には及ばないと思いますが,多摩川川普請役がいつ頃のことか調べました。1801年から大坂銅座勤務,江戸に戻ることなく1804年から長崎奉行所勤務で1808年江戸に戻り玉川巡視役をつとめています。50歳すぎて地方に飛ばされ,数えで60歳になって田舎回りとは,いろいろあったんだろうなと思いますが,また横道にそれてしまうので興味のある方は御自身で調べてもらうとして。 真白いそばを食べたのは1809年3月,彦右衛門の家に泊まったときのことです。わざわざ信州から取り寄せたそば粉を主人みずから手打ちにしたのだそうです。 「ことし日野の本郷に来りてはじめて蕎麦の妙をしれり,しなのなる粉を引抜の玉川の手づくり手打よく素麺の滝のいと長く,李白が髪の三千丈もこれにはすぎじと覚ゆ」と賛辞をおくっています。
■ まとめ 以上のことを踏まえ,想像力を働かせてまとめると,
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