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  伝説と迷信 (村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

  群馬県の群馬・勢多両郡地方には、こういう伝説がある。

 新で地獄に行くと、宝田の長念寺(群馬郡宝田町)の井戸見たか、滝の慈眼寺(群馬郡瀧川村)の花見たか、赤城川原の蕎麦食ったか、と閻魔が亡者を調べる。蕎麦を食ったと言えば極楽に行けるという口碑が残っているので、今でも県下の老人たちは、その赤城川原(勢多郡南橘村大字川原)に産する蕎麦を食べる習慣が伝わっている。

 観音の供物

 十日夜とおかんやいいもんだ、朝蕎麦切に、昼団子。

 という唄がある。

 旧十月十日の当日は、早朝蕎麦を打って、観音に供えたり、一家族が揃って食うのが例となっている。これは栃木、群馬、埼玉あたりで、最も盛んに行われているし、東京付近でもこの習慣を守っているところがある。

 観音に蕎麦を供えるのは、観音菩薩が好物だと伝えられているからである。そして蕎麦を供えて祈願し、その日に食えば、寿命が蕎麦の如く長く保てるという迷信に過ぎぬが、高崎市石原の清水観音や、伊香保水沢の観音などには、今でも旧十月十日には、盛んに備えられる。

 瓜姫の話

 昔、会津若松近在の長者の娘に、瓜姫と呼ばれる美女があった。ある日、土地の領主が狩りに出た際、瓜姫の機織はたおる姿を見そめ、奥方に迎えることになった。ところがそれを聞いた天邪鬼あまのじゃくという鬼が、同じく瓜姫を恋して、しはしば言い寄ったが望みを果たすことが出来ず、悶々としていた矢先に、この話を聞いたのだから、落ち着いてはいられず、長者夫婦の留守に乗じ、瓜姫を納屋に監禁し、天邪鬼が姫に化けて、領主からの迎えの駕籠に乗り、嫁入りするとになった。

 城の間近にその駕籠が来た時、どこからともなく一羽の白い鳥が飛んで来て、「駕籠の中には天邪鬼、瓜姫様は納屋の中」

 としきりに啼いた。

 付き添った者は、いずれも奇異な思いを抱いたが、そのまま行列を進めると、白い鳥は行列の上を舞いながら去ろうとはしなかった。

 あまりに不思議なので、家老は行列を止めて、山芋を駕籠の中の瓜姫に食べさせると、皮をむかずに、むしゃむしゃと食ってしまった。それを見た家老は、何か心に思い当たることがあったものと見え、やにわに瓜姫の姿をした天邪鬼を駕籠から傍らの蕎麦畑に引きずり出し、一刀のもとに斬り殺してしまった。

 そして納屋の中に閉じ籠められていた、真の瓜姫を助け出して、めでたく領主の許に送って来たのである。

 それで天邪鬼が斬られた時に、飛び散った血汐が、蕎麦畑一面に流れたので、それ以来蕎麦の茎は赤くなったと言い伝えられている。また瓜姫の急を告げた白い鳥は、蕎麦の花の精だといって、今でも同地方では白い鳥が現れると、瑞兆だと言い合って、必ず蕎麦を打って、喜び祝う習慣が残っている。

 たち蕎麦

 福島県南会津郡の地方では、古くからの因襲で、たち蕎麦というのを造る。たち蕎麦は普通の蕎麦切のように、定木を当てて切らず、薄くのしたるものを、いきなり包丁で、目分量で細く糸のように切るのが、有名なものとなっている。

 この地方では、他から珍客を迎えると、必ずこのたち蕎麦を造って、良家の子女が給仕に出て、待遇する風習が、今でもなお行われている。これは昔からこの土地が、冬になると一丈あまりの積雪が珍しくないので、冬は食物に事欠くのを常としているため、蕎麦を常食にしていた関係から礼儀として尊ばれたのだと伝えられている。

 祝儀には用いぬ

 これは栃木県の風習であるが、蕎麦は一般の祝儀には避けられている食物の一つになっている。それは切れやすいためで、なかんずく結婚式の場合の如きは、ことまれている。

 寒暑に堪う

 全く塩気を含まぬ蕎麦のみを食っていれば、いかなる厳寒酷暑といえども、病気にかからないと信じられている。昔の僧侶が世俗から離脱して、真の修養に志す際には、必ず塩気を用いぬ蕎麦を食したものだと伝えている。

 大入蕎麦

 芝居ではかなり古い時代から、行われていた慣例である。興行の狂言が当たって、桟敷売切申候と、表木戸口に札を掲げる場合には、太夫元から関係者一同に、大入蕎麦と名づけて、盛り蕎麦二つづつを、振る舞ったものである。それも多くの場合は、芝居小屋付近蕎麦屋の、切手を配ったが、現今では紅で大入の二字を刷った、いわゆる大入袋に蕎麦代として、現金を入れて渡すようになった。

 大入満員の盛況が毎日続けば、毎日だすので、花柳界では縁起を祝って、空の大入袋を神棚に貼りつけて、極めて大切に保存しておく風習がある。芝居に限らず活動写真、その他の興行物でも、大入袋の祝儀は行われている。

 引越蕎麦

 この風習は主に関東地方の、都会に行われていることで、新しく移転した者は、向こう三軒両隣の家に、引越の挨拶として、盛り蕎麦三つを配るのが普通の礼儀となっている。おそばに永くという意味だと伝えられている。これも送られた方の便宜を計って、切手を配ることが一般におこなわれている。

 敷初しきぞめ蕎麦

 昔の遊女屋では、女郎の階級を問わず、夜具を新調した場合には、必ず楼中の者一同に、蕎麦を振る舞ったのが例である。遊女自身が、曠々はればれしい夜具を新調する事は示威的でもあり政略的でもあるので、いわゆる、積み夜具の全盛を誇る遊女が、その新調の敷初めをする場合、祝儀として蕎麦の大盤振る舞いをするのである。

 晦日みそか蕎麦

 晦日蕎麦の因縁については、種々の説があるが、商家ではほとんど一般に晦日蕎麦を食って祝儀とする。細くとも永く続くという縁起からともいい、金箔を伸すには打粉に蕎麦の粉を用いるところから、金を伸す縁起だともいう。『本草綱目』に、蕎麦は五臓の滓穢を去るといってあるところから、商家では晦日にその月の貸借勘定を決算して借りも貸も奇麗さッぱりと片付けることが、五臓の停滞物を排除するようなものだとて、蕎麦を食って掃除する意味だともいっている。

 年越蕎麦

 節分の夜に食う慣例がある。殊に年越蕎麦に、葱を入れて食うのは、これは清祓いをするという意味で、ねぎ禰宜ねぎに通じるという言葉から、生まれた習慣だといっている。

 婚礼には饂飩

 茨城県下では、饂飩を結婚式の時に用いるが、蕎麦は一切食わぬ。

 蕎麦の若芽

 栃木、茨城県下では、六月一日に蕎麦の若葉を摘んで、浸しものにして食う習慣がある。これは炎天で耕作しても、日射病にかからぬと信ぜられているからだ。

 蕎麦稲荷

 明和元年の六月の頃から、深川椀蔵わんぐら大番頭おおばんがしら大久保豊州候下屋敷の稲荷社に参詣人が群集した。参詣する人は蕎麦を供えて、一しきりは非常な繫昌であった。

 稲荷蕎麦

 小石川伝通院前にある稲荷蕎麦は、昔伝通院境内の沢蔵主たくぞうすという狐が毎夜の如く蕎麦を食いに来たという。沢蔵主稲荷のお蔭で繁昌をしたというので、今でも軒頭へ祭礼提灯を出して蕎麦を商っている。

 疝気せんき稲荷

 砂町の王智稲荷は俚俗疝気稲荷と称し、疝気に悩むものはこの稲荷に願懸けをすると直ちに平癒するといって、願懸けと願ほどきには必ず蕎麦を宝前に備える。

 

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