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  蕎麦の概念 村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

 おそらく、現代大衆的の食物のうちで、寒暑の季節を選ばず、嗜好されるものと言ったら、蕎麦ほど世間一般的に、普及しているものはないであろう。

 日本人の体質に適した食料であるため、われわれの祖先が、好んで口腹を満たしていたものの一つであった。それが今日まで伝わって、少しも飽きられずに、米麦の代用食として、貴重な糧食となっている。

 元来食物ぐらい、時代時代によって、変遷して行くものはない。殊に明治維新この方の、急激な変化の著しさは、驚くべきである。欧米各国支邦朝鮮あたりとの、交通が密接になってから後は、さまざまな文明が輸入されると共に、新しい食品は運び込まれるに至った。そのかつて味わった事のない調味法や材料は、髷を切り落として間もない日本人の味覚に、どんな刺激を与えたであろう。そしてあらゆる人種の口にする食は、わが国にも用いられて、今日に至った。

 われわれの父祖が、獣脂の香りに嫌悪を感じながら、鼻を掩うて食った物も、現代では喜んで摂るほど馴らされた。そして食物が一転化し、朝の食事はパンに牛乳に限るなぞと、西洋カブレをした日本人まであるようになった世の中だが、しかしやはり米の飯は、われわれの常食として、もっとも美味な糧食である。と共に、往古から祖先の好んで食った蕎麦の如きは、食物だけ西洋カブレの連中にも、歓迎されているのである。

 淡白で、一種の香気を持った蕎麦は、穀物を主食として生活している日本人に、喜ばれる第一の主因であろうが、四季を通じて、いつでも食い得られるという、気候に偏しないことや、比較的に安価に求められるためでもあろう。寒冷の候には熱い蕎麦によって、しのぐことが出来、暑い時には冷たい盛り蕎麦や氷蕎麦といった風に、気候に適応した調理が自由だから、これほど重宝なものは、ちょっとあるまいと思われる。蕎麦が万人向きの食物になっているのは、こういった点にある。

 皇紀一千三百八十二年、元正天皇の養老六年七月に、天下の国司をして百姓に勧課し、晩禾蕎麦及び大小麦をえ、儲積ちょせきして荒年に備えしめよと詔勅を発せられた。

 その後皇紀一千四百九十九年、仁明天皇の承和六年七月にも、畿内の国司をして蕎麦を種うることを勧めしむ。その生じるところの土地は沃瘠を論ぜず、種を蒔けば収穫があり、共に秋中の稲梁の外にあって食物となすに足るとの詔勅を下された。

 これは『続日本紀』『続日本後紀』に記されてあり、今から千二百余年前、すでに蕎麦が食料として用いられていたことは、明かに歴史に伝えられている。

 『先哲叢談』巻一、林春斎伝に、「続日本紀養老六年七月天下に勧課し、晩禾蕎麦及び大小麦を種樹せしむと、是の言によれば世に蕎麺をくらうやひさし。おもうに当時ただ農民の食に給するのみ。その上下通用の製殊に精巧を極め、以て珍饌滋味に代うるは、けだ鞬櫜以来に始まる。春斎戯に煙酒をにくむものに答うる文に曰う、近歳多く蕎麦麺を嗜む者、盛器堆を成し、放飲流歠ほういんりゅうせつ口を張りかおふくらし腹に満たし喉に擁す。十余椀を更うるも果たして厭かず。麺虫を消すにあらざればこれに及ばざるか、蓋し是れ田舎野人の食なり。然るに侯伯の席、文雅のえん、往々是を以て頓点となす。流俗の化これを奈何いかんともするなし。煙酒の行わるる既に五十余年、蕎麺の行わるる殆ど三十年、共に是れ人に益なしといえども亦害なきは必せり」云々とある。

善庵随筆』には、「養老六年七月戌子詔して曰、今年夏雨降らず苗生長せず、天下の国司に令して百姓に晩禾蕎麦及び大小麦を植しめ蔵を造って荒年に備えしむ。又承和六年七月畿内の国司に令して蕎麦を植えしむ、其生ずる所の土地は沃瘠を論ぜず秋の中にただ収穫し得る稲の外に食するに足るなりとありて、先王天下の国司をして百姓に勧種せしめ給えば、其後とても諸国にて蕎麦を種て凶荒に備え、二麦の助となせしかど、其頃は蕎麦掻餅に作して食料に充し、今の蕎麦切などのようなる物はなかりし」云々とある。

 昔から一般の常食ともし、米麦の凶作に備える唯一の糧として戸々に収蔵され、蕎麦かき餅から蕎麦切と変遷して、今日都鄙とひ共通の食料とまで進みきたったものだ。


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