けんどんの諸説(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)
慳貪
の名を蕎麦に冠したのは、寛文四年に、慳貪蕎麦切始る、価八文ずつにて、下賤の食とすとあるのが、けんどん蕎麦の最初である。どういうところから言ったものだか、意味が明らかではない。
元来慳貪の意は、己が物をおしみ、他の物を
貪
ることをいい、転じて
苛
にして情愛のなき、邪見などを言ったもので、語源からいっても、蕎麦にけんどんというのは、はなはだ解しがたい語である。けんどんは麺器を収める箱の蓋をいうので、そこから出たものであろうという説もある。それが最初は蕎麦に冠し、更に飯に移り、酒に移り、やがて女郎をも、けんどんの名を冠するに至った。女郎を呼ぶに慳貪の名は、普通の解釈によっても、うなずき得らるることであるが、飲食物を名づくるに慳貪を冠した、持ち運ぶ器を入れる、
提箱
から来たと見るが至当であろう。現にけんどん蓋と称する箱や袋戸棚の戸などに残っているけれども、飲食物にけんどんの名を呼ぶものは全くない。
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慳貪は江戸瀬戸物町信濃屋という者、初めてこれを巧みにして其の後諸所に流行して、堺町市川屋、堀江町わかなや、本町布袋屋、
大鋸町
桐屋など名を争う中に、鈴木町丹波屋与作というもの名高かりしなり。 |
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(『世事談』) |
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慳貪、寛文二年寅秋中より吉原に初めて出来たる名也。往来の人を呼ぶ声
喧
しく、
局女郎
より
遥
劣りて鈍く見ゆるとて喧鈍と書かせたり。其頃江戸町二丁目に仁右衛門という者
饂飩
そば切を商いしが、一人前の弁当を拵え、そば切を仕込みて銀目五分宛に売る。
端
けいせいの
下直
なるになぞらえ、けんどんそばと名付けしより世間に広る。 |
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(『洞房語園』 |
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喧鈍本説の如くなるべし、しかし昔より世にけんどんなる人などというを慳貪と続けて書ける文字にて、愛仁なき人の上をいう。さあらば端女郎
の呼声とがとがしく愛無き様ゆえに云出たる事もあるべし。仁右衛門がそば切の事さもあらん。そば切のけんどんは券鈍と書きて売り、そばと云う事是れ手打ち手製に並びて伝える言葉なり、かかる片言云い出て後文字に義理を付けばいかほどにも道理付くべし、
爰
に其の文字の沙汰入らざる事ゆえ強いていわず。いずれけんどんそばと云える名吉原より世間に広るとはさもあらんか。 |
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(『北女閭起源』) |
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