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 明治年間に廃絶した店(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

  明治になって廃絶したものに、団子坂のやぶがあり、上野の 無極 むきょく があり、深川冬木の米市ならびに薮そばの如き、なかんずく著名な店が、その跡を絶つに至ったのは、かえすがえすも遺憾の極みといわねばならぬ事である。

 江戸以来の記録に残された、当時名の高い店の模様は、今と比べるとまったく隔世の感がある。

 無極庵

   上野を降り右側にして門前に車井戸のある家なり。座敷はすべて襖張りの画によりて春夏秋冬に分けてり。この家、料理の価 はなは れん にして、 つ三つの名物あり。一は東叡山の開山なる天海僧正この家の号を名けたる無極の二字を、大久保彦左衛門が筆せる扁額にして、古色最も愛すべく、二つには蕎麦にして、これは三百年来伝来の特色なるものたり、三つには娘みつ女の手踊なり。 もっと も初と終りのものとは、主人これを秘蔵し居れども、第二の蕎麦は客の求めにて進むなり。
  (『東京百事便』)

 という記録によるほか、全く跡方なくなってしまったが、現在上野山下の鳥鍋の場所が無極庵のあったところだと伝えられ、明治二十四年、五年頃に廃業したといわれる。

 やぶそば

   団子坂の上にあり。田野の眺望最もよく、また庭前には古石苔滑にして、 離座敷 はなれざしき 数多 あまた 、閑静なるものありて、その趣真に風雅なり。 つ坂下には水滝あれば、夏期は こと に涼を買ふに適当なり。
  (『東京百事便』)

 江戸の蕎麦屋中で、第一に指を屈せらるるのは、このやぶであった。千五百坪の広い庭園を有したことも、評判の一つになったのには違いないが、元来が旗本三輪 なにがし が隠居所を、そのまま 蔦屋 つたや と名づけて蕎麦の店を開業したのである。

 前庭に 飛瀑 ひばく を造ってあったので、納涼の客に賑わったことは、非常なものであった。客のために備えた百五十枚の浴衣が、常に不足したと言われたくらいに繫昌したものだ。それに団子坂に菊人形の盛った頃には押すな押すなの人出で、この時分のやぶは朝から晩まで人足が絶えなかった。後園一帯は 孟宗竹 もうそうちく の薮であったので、蕎麦の道具は多く竹細工を用いた。そして土産物の蕎麦の汁を容れる器も、この竹筒で造り、栓に大根を用いたという風雅な趣が、いっそう喜ばれたものだ。

 それほど繁栄を極めた店であったが、惜しいことに後継者があまりにさまざまな事業に手を出したために、明治三十九年に至って、閉店するの運命を余儀なくされたのである。その後同四十三、四年頃に至って 支邦 しな 天津 てんしん に、このやぶの一家であるという蕎麦屋が開店したという風聞が伝わったが、果たしてやぶの一家であるかどうかは判然としていない。

 このやぶそばは、現在ある菊そばの場所ではない。よく混同して話す人があるが、全く違っている。やぶは団子坂の通りではなく、坂の中腹の横通りで、今でも石崖の上に、荒れてはいるが昔のままの気取った門が残っている。看板は 神田連雀町 かんだれんじゃくちょう のやぶが保管していたが、大正十二年の震災で焼失したと聞いている。

 ついでだからつけ加えておくが、今ある菊そばはそれほど古い店ではなく、 植惣 うえそう という植木屋が始めたもので、菊の名所であったところから、菊そばと名を冠するに至ったものだ。 暖簾 のれん には梅寿楼と記してあった。

 冬木 米市 よねいち

   深川冬木弁天の境内にあり、池に のぞ みて 離家 はなれや 数多 あまた あり、景色もよろしく、茶蕎麦、卵蕎麦は格別なれば、遠方より杖を くもの多し。
  (『東京百事便』)

この米市も廃絶してしまった店だ。冬木を閉店した後に、相州大磯で開店したけれど、やはり思わしくなかったのであろう。廃業したそうだ。

 深川の薮そば

   深川霊岸寺の裏手にあり、名代の旧家にして、夏期は浴室もあり来客をして随意に入浴せしむ。又古池ありて釣も出来るなり。
  (『東京百事便』)

 この家も惜しいことに明治の末年にはその跡を見られなくなった。それでもここの暖簾下は今も各区に残っているものが少なくないはずだ。

 以上四軒の跡が絶えたことは、取り分けて惜しむべきであるが、まだこの他に有名な、

   深川の翁庵、芝のまこと庵、浅草馬道の正直、吾妻橋の薪屋、人形町の明月庵、麹町の養老庵、同瓢箪屋、麻布広尾の狸そば等々。

数えて行くとまだまだ沢山ある。

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喜心庵のホームページ