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 惜まれた名代の店(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

 正直蕎麦

 延宝元年創業という正直蕎麦の主は、その当時本所中の郷から日々浅草寺の境内へ来て 蘆簀張 よしずば りの店を出し、戸板の上で黒椀に盛った蕎麦切りを売ったのであるが、値段が安くて味が いのが評判になり、正直蕎麦と異名を付けられて名物の一つに数えられ、その後馬道へ移っていよいよ繁盛し、宝暦の五年八月二十五日に駒形へ出店を出した。

 この正直と芝のまこと庵、出世庵の三店の名を集めて「まこと、正直、出世庵」といって若い者の戒め草にまで うた われた。ちなみに『 我衣 わがころも 』という随筆には「享保の末より馬道にて正直仁左衛門といふそばやありて」とあるから、享保の頃の主は仁左衛門といったと見える。

  麹町瓢箪屋 こうじまちひょうたんや

『衣食住記』に、

享保の頃、 饂飩蕎麦切菓子屋 うどんそばきりかしや あつら え、船切にして取り寄せたり。其後麹町瓢箪屋などいふけんどんや出来、蕎麦切ゆでて紅がら塗の物に入れ、汁を徳利に入れて添へ来る。

 安永十年 提亭 ていてい 撰俳句集『種おろし』に、その時代のはやり物を記した中、

  船切、麹町 へうたん ひょうたん 屋。

 とある。船切は以前菓子屋で饂飩蕎麦切を製し、船切重詰にして売った余波で、船切と標榜して売るのは故実を心得たからである。『事物根源記』には、

  饂飩屋元祖、浅草瓢箪屋。

 とあるから、あるいは麹町より前に浅草に瓢箪屋がいたのかとも思われる。

 『続飛鳥川』寛永宝暦の頃から文化までの売り物を記した中に、

  上そば切、麹町瓢箪屋計也。

 とあって、「 計也 ばかりなり 」というからは上蕎麦はこの瓢箪屋に限ったと見える。

 蜀山人の文に『瓢箪屋は麹町の名家』とあり、また天保七年の『江戸名物詩』には、

瓢箪屋蕎麦 
麹町四丁目 饂飩蕎麦瓢箪屋。名字十三町内聞。代々諸家多出入。註文日々客成群

 とある。嘉永元年の『江戸名物酒飲手引草』にも、「 御膳生蕎麦 ごぜんきそば 」の部に、麹町瓢箪屋の名が載っているから、この店はもっぱら大名屋敷武家方を得意として繁盛していたもので、幕府瓦解と運命を一にしたものと思われる。

 深川洲崎の 笊蕎麦 ざるそば

 延享二年の春、江戸の流行物を集めた句集『 時津風 ときつかぜ 』は 時々庵 じじあん の門人 反古斎菓然 ほごさいかぜん の編である。その『時津風』には深川の笊蕎麦はいせや伊兵衛と記せられてある。その後安永十年 俳人提亭 はいじんていてい の撰『種おろし』という句集にその時代のはやり物目録があって、蕎麦切りには、

馬車道正直、駒形正直、新吉原釣瓶、浅草道好庵、境町福山、牛島長命寺、雑司ヶ谷薮の内。

 と相伍して深川洲崎笊蕎麦の名が挙げられていたが、『武江年表』の記事によると、寛政三年九月四日の高波に襲われて後断絶したとある。

 入谷の 松下亭 しょうかてい

 安政元年夏の頃より、入谷に松下亭といえる蕎麦屋出来る。庭中に池を掘り少し趣をなせり。(『 武江年表 ぶこうねんぴょう 』)この松下亭は 江戸の夕栄 えどのゆうばえ にも載っている。いずれ維新後廃絶に帰したものであろう。

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