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  蕎麦の説いろいろ村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

  蕎麦の賦 附 真田汁

 これは信州出身の木村幹氏が御国名物の川上蕎麦についてかつて発表されたところのものである。

 甲斐、武蔵、信濃の三国を境する山また山の甲武信ヶ岳である。この甲武信ヶ岳からチョロチョロ水が流れ出して越後の国まで旅をすると、もう本州第一の長流大河信濃川になってしまう。つまり千曲川だ。さて山また山の木下闇を分けて来たそのチョロチョロ水がどうにか小流れとなって川の形をなしている辺までくると、そこに一里置きに数戸から十数戸を数えるくらいの部落が十あってこれを川上村という。この十里ある川上村の名物は第一に蕎麦、材木、猪、といったようなもの。紅葉紅葉というが、碓氷の紅葉が何だ、あれはまだ黄葉の部だ。武陵桃源の川上村字梓山の紅葉を見てこそ天下の紅葉を口にすべきである―のだが、惜しいかな第二の名物たる材木も年産額が減る一方でもはや昔日の桃源郷の紅葉は昔語りになってしまった。私の中学時代の学友の一人は猪狩りで不具になってしまったが、不具になっても好きな鉄砲は止められぬというているそうだが、その猪もやはり近年はめっきり減ってもの珍しいくらいまでになってしまった。ところで、蕎麦だけは大したものである。この川上蕎麦をもって信州蕎麦の随一となす向きもあるようだが筆者も賛成である。が、間違えてはいけない。川上村から十里ぐらい下がったあたりでも蕎麦粉の袋にはすべて川上蕎麦と銘打ってあるが、それは蕎麦粉にはあらずして饂飩粉である。川上蕎麦は大したものでもそれほどの産額はない。またよし真正の川上蕎麦を川下で売りさばいていたとしても、土地が変わり時を経れば蕎麦粉化して饂飩粉となってしまうのである。それを少し説いて見ようと思う。

 川上村地籍を出抜けてしまえば千曲川の流れは激流と化し、やがては本州随一の大河ともなるべき相を呈している。そうして水田などもぽつりぽつり見えて、尋常に穀物が実る。穀物の出来るところの蕎麦は口に入らない。味噌の味噌臭きは味噌の上乗なるものにあらず。上出来の三年味噌には匂いはあっても臭さはない。ところで二年味噌一年味噌はおろこ、二月三月でもはや味噌でございといって売り出す東京味噌のしかもその大半が胡麻化しの馬鈴薯を練り込んで仕上げたものである。それのプンという臭気は、唾棄すべき味噌臭さである。蕎麦は年中霧が巻いていて到底穀類など尋常に実るべくもない深山の畑地に、その霧の中でわずかに白く開花するともう秋冷の気に打たれて辛くも実を結ぶ。こうしてようやくにして得られた実にあたじけない蕎麦の実が、山中の香気を捨てざる蕎麦らしき蕎麦となるのである。山中の蕎麦といえども、豊作どしの蕎麦は掬すべき香気を欠く。いわんや里の蕎麦の色白くいたずらに舌ざわりのみ柔らかにして鼻に来る臭いのプンと饂飩粉じみたるは、これをたとえばぶてぶて肥った悪女の不貞図々しきが如くで、実以て謝る。

 蕎麦は可憐なものである。そのいかにも清浄なる花の可憐なるが如く、細く短き深山の蕎麦の茎の赤きもまた実に可憐である。この赤い茎の幼いものを茹でて、胡麻でよごして食膳にのぼすと、可憐そのものを味わうような心地がする。仙人は松の葉を食すると聞いているが、深山の畑に蕎麦を耕して食っていた方が、より仙人らしくはないだろうか。

 さてこの蕎麦を食うのに、手打ちそばという、そのうち方にソツがあってはいけない。そのほか茹で加減等もちろんのことであるが、茹で過ぎてしまったんではいかな川上蕎麦でも仙人の味わいはしない。筆者は蕎麦がきを作るのにチト違法をやっている。普通熱湯を以てかくが、それだといかにしても蕎麦粉が死んでしまう。さればといって生かきもチト恐れる。でややゆるく湯がいた蕎麦がきへ、別に生がきのものを用意しておいて、それを注ぎ入れ、ほどよくかきまぜて、蕎麦の香気全部を消し去らない程度のものを作り上げてこれを啜りかつ呑む。仙人とまでは行かずともわずかに山の気は偲べるのである。で手打ち蕎麦に戻るが、蕎麦食いは昼蕎麦、夕蕎麦といって、夕方になると泣き出す。夕食の蕎麦ではもう蕎麦が死んでしまうのである。だから、川上蕎麦の粉をもたらし帰って、名人を雇い入れて打って貰っても、気候と水とが変われば山中の香気はもうあらましは逃げ去ってしまうものなのだ。東京の真ん中で更科蕎麦ないしは藪蕎麦をつついて、ああわれは蕎麦を食えりといっても始まらない話である。蕎麦の滑らかさのもを存してその香気を逸したものはまさに饂飩であって、さあらば大阪の狐饂飩と東京の更科蕎麦とはそのいずれがうまきやというところが落ちであろう。月の更科もとより蕎麦のまずかろうはずはなけれどもである。

 がしかし、そうそうやかましいことばかり並べていたんでは本当の仙人にになってしまうから、世間にあまり知られていない方法で、可能性のある珍な食い方一つご紹介する。信州は上田在に行くと(もちろん市でも自慢の蕎麦を食わせるがここではなるべく蕎麦の原形を説いている次第読者諒焉)名物真田汁の御馳走をしてくれる。筆者の知れる限りにおいて「しぼり汁」一名「真田汁」を以て食うのが最も蕎麦を活かす方法だと思う。そうして土地の人は上田城にからんでこれは真田幸村がはじめてこうして食って見せたものなのだと、おじいさんおばあさん連直伝でも受けているように吹いて聞かせる。なお蕎麦粉は信越国境は一茶が里、柏原蕎麦と註文するがよし。浅間を越えた越後の山中からも粉は来るようだが、柏原蕎麦のほうがよろしく、かつどうにか本物が届くらしい。

 汁の材料―これは沢庵用の練馬大根ではチト間に合いかねる。寒国では「おろし大根」を別に作る。この寒国特有のピリリと来るおろし大根をおろして絞った汁―これが「しぼり汁」またの名を「真田汁」である。これへ近来しきりに東京でもてはやされ出した信州胡桃(実は品種の改良をなされた朝鮮胡桃のことで、在来種にあらずかし胡桃と称せしもののいっそうよき品種なり)を以て味付けするのがデンだ。それへ生醤油を差して生蕎麦の汁となすのである。こうすると馬がハネ出したほど蕎麦が生きて来る。ただ寒国の「おろし大根」はいうにいわれぬ味と共に非常に辛味があるから以上のままでは酒飲み以外の者の口へは入らない。で、女客にもこれを口にすることが出来るよう、東京の馬鈴薯味噌ならざる本当の三年味噌をすったものを添えて出す。おろし大根に味噌をあえると辛味はとんと薄れてしまうものである。味噌を用うる者は欲する程度にカラ味を存しておくよう、加減して味噌を加えればそれでよろしいのである。ただし酒飲みにはきついんだから、真田幸村そのままにてこれを食すべし。 からい からい 哈哈頓首

  東京の蕎麦と国の蕎麦

 河野通勢画伯は、蕎麦の名物とされている信州の出身で、蕎麦についてこういう観察を下している。

 僕の国には色々国自慢になる事が多いだろう。有名な「そば」は天下に名があって、「そば」はすぐに更科といわれる位になっている。しかし、この「更科そば」なるものが、どういう処からその名が生まれたものだか、一体更科という所(郡名であるが)からは「そば」はそれ程沢山は取れない。ただ有名な姥捨山が更級郡にあるところから、月に因んだ俳句や歌が多いし、それを通し従って有名になっている更科という言葉に、あやかって、蕎麦にもその名を著せられるようになった理だと思う。しかしたしかの事は、自分は知らない。

 一体食物は味で食わせるかというと、勿論もちろん味で食わせなくてはならないが、感じでは、国の「そば」は実にゼロである。盛りが沢山で器がきたない。茶碗がきたない、「そば」が太い。こういう事はいけないことだ。もっとも一流の料理屋などで、取り寄せる蕎麦は、流石その点は注意してはいるが、とても東京の如くには行かない。だから国の蕎麦の自慢は味の事になるが、その点ではやっぱり国は国だけの事はある。

 蕎麦の匂いや色、それから取り立てていえば、まあ田舎では田舎のひなびたところが、又取得かもしれない。しかし「そば」の好きな都の人が、たまたま「そば」を御馳走すると、なかなかうまいという事だけは、お世辞でなくいうところを見れば、やっぱりどこか蕎麦としては、その味に所以があるのだろう。

 しかし感じからいっても、味からいっても、したじは国のはどうもまずい。僕などは蕎麦の味覚は、てんで批評出来ない。ただ感じとしてしたじで食うだけだ。

 これもしかし例えば山登りなどで、あの下手な「そば」を食う味は、これは又国独特な味になり、国の「そば」は実は、山から山を伝い、野原を追分節で行くときとか、昔造りの暗い宿場などで食う時に初めて、その本当の味がわかるのかと思う。

 要するに東京の「更科そば」などは、あれは東京の蕎麦であって、決して国には、ああいう「そば」はない。どちらがうまいかは知らないが、唯したじと感じだけで食う自分には、東京の方がうまいと思うのである。

 

 シッポク 正岡子規『病床六尺』

 余の郷里にては、饂飩に椎茸、芹、胡蘿匐にんじん、焼あなご、くづし(蒲鉾)など入れたるを、シッポクという。これも支邦伝来の意であろう。麺類はすべて、支邦から来るものと見えて、皆漢音を用いている。メン(麺)、ソーメン(索麺)、ニューメン(乳麺か此漢語漢音か知らぬ)、メンボー(麺棒)、ウンドン(饂飩)の類、皆これである。それになお面白いことは、夜間饂飩、蕎麦など売りに来る商人が、地方によりて「ハウハウ」と呼ぶことである。この「ハウ」は支邦語の好の字にて、ハウハウは即ち好々という意になる。

 

 日記の中より
夏目漱石の日記

 三人で大石忌に行く。小紋に二つ巴の仲居。赤前垂。
「此方へ」
「あちらから」
と丁寧に案内する。舞があるから見る。すぐお仕舞になる。床に蕎麦が上げてある。薄茶の席へ通る。美しい舞子と芸者が入りかわり立ちかわり茶を出す。見惚れている。仏壇に四十七士の人形が飾ってある。菜飯に田楽が備えてある。
 腰懸こしかけをならべたところで、蕎麦の供養がある。紺に白い巴を染め抜いた幕。

 

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