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  蕎麦粉の話(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)

   農家が畑から蕎麦を刈取ると最初にこれをはたく。はたくというのは竹を格子形に組立てたもので、蕎麦のくきを打ち実を落す作業である。はたき終ると天日に乾燥して半切桶に入れて両足で踏み、実に付着している坐とか花弁とかを取り離し、唐箕にかけて坐と実とを分ける。分けられた実は俵に詰めて売出される。これを製粉して蕎麦の原料とするのである。

 昔の蕎麦の製法は、蕎麦の実を殻そのまま石臼で挽き潰し、目の荒い篩で手篩にしたのであるから、外皮や甘皮の壊れたのが交っていて粉の色が黒くなり、したがって足(粘着力)がない。こんな粉を打って作った蕎麦はぼきぼきと折れやすい所から、自然つなぎというものを入れなければならなくなる。今でも田舎では 商陸 やまごぼう の葉や海藻の一種をつなぎに用いているが、時間が経ると打った蕎麦が硬くなる憂いがある。 薯蕷 やまのいも や鶏卵でつなぐのはそばの風味に影響するけれども、つなぎの方法としておうおう秘伝としていた地方さえあったのである。

 江戸では早くからうどん粉をつなぎにしてその風味を向上することに研究を積んだ、二八、三七などの称呼が起ったのも、その調合の歩合をいったもので、実際蕎麦には他のつなぎよりもうどん粉のつなぎが最も適当なのである。

 それに江戸向の蕎麦は、殻を全然排除して外皮のついた実を臼に入れ、最初に出るアラ粉を除き、一番粉二番粉三番粉四番粉と取り分け、終りのものは 末粉 すえこ として用い、最後に残るものはサナゴと称する。

 更科は一番粉で製する蕎麦で、色は白いが香気に乏しい。それは米の精白米のようなもので、香気を持つ甘皮を入れないからである。

 生蕎麦、二八蕎麦には二番粉から用いる。ヌキから一番粉を取り、二番粉になると甘皮の香気を含み、蕎麦としては最も風味のあるものが出来る。

 三番粉、四番粉は善いところを抜いて次位のものであるから、値段も安くなる。これが第二流の以下の蕎麦屋に廻り、安直な駄蕎麦に作られる。

 末粉に至っては馬方蕎麦に用いられる。馬方蕎麦は風味よりも盛りの多いのに重きをおいて、それで安直なものだから、原料の下るのは是非がない。この末粉にサナゴを加える蕎麦屋さえあって、打ち方には非常に骨が折れるのだが、板前の腕を磨くには、この馬方蕎麦の職人となったものほど達者であったのだ。現代の製粉はもっぱら機械を用うるので、便利なことは往時の手挽きの比ではない。

 まず最初実を精磨機にかけて土砂や夾雑物を排除し、分離器にかける。この分離器は精粗五段の金網からなるもので,実を大小五種に分け、大粒の物から小粒の物と順を追って、脱穀機にかける。米や麦とは異なって蕎麦の実は三角四角であり、脆いものだから、まずくいくと実も皮も一緒につぶれる。それを苦んで地方では地方では脱穀の手数を省いて殻ぐるみ挽きつぶすから、色は黒くなり、味も下がるのである。

 脱穀機というのは浮臼という石臼を備えた機械で、実の大小に応じて高低を調整し得る仕かけになっている。分離器で篩い分けた実は、大粒のものから脱穀機にかけられ、一番から五番まで同様の手数を繰り返して出来たものが、いわゆる挽き抜きで、すなわち脱穀を終わった蕎麦の実である。

 それから製粉機にかけるのだが、製粉機にもローラーもあれば石臼もある。最初に出る粉がアラ粉でこれは取り除かれる。二回三回の粉を一番という。これは晒粉のような外見で、色は白いが香気に乏しい。御膳更科の原料とするものである。

 そうして二番を取り、最後に残る粉はサナゴと称して、これは洗粉の材料に廻るのである。

 製粉は特等一等と区別されて、前の粗粉と後の 末粉 すえこ は二等以下に廻される。

 蕎麦粉は製粉後日を経ると、香味も粘着力も失われる。挽き立てのものを用いねば善い蕎麦はできない。

 蕎麦の名産地としては古来信州が挙げられ、更級の地名が最も推称された。一口に更科蕎麦といえば、最上のものとされていた。ところが現今ではこの名所も養蚕の利益ある事業に駆られ、一帯に桑畑となって蕎麦の栽培は滅びてしまった。信州人は柏原付近を蕎麦の本場のように言うが、それは名ばかりのもので、東京市内の一ヶ月間の需要にも足らぬ産額であるから、東京の蕎麦に柏原の原料を使うということは問題にもならない。東京では江戸時代から主として三多摩・荏原・豊島の各郡から供給を受けたもので、品質は本場と称する信州そばに劣らず、香味とも優良な品であった。これらの産地が後作の関係で大概早刈りされるので、外皮の中の甘皮に青みがついている。製粉の際にこの青みのある甘皮は、末粉なりサナゴなりに挽き抜かれるのであるが、粉そのものも自然と青みを帯びて、蕎麦に作っても生気を失わないのが特徴であった。明治二十年を一区画として農業の進歩につれ、以上の産地も漸次蕎麦を作らなくなり、産地はようやく埼玉・茨城の地方に移ったが、この地方もまた農業の転化を免れないで、蕎麦の栽培は盛岡地方から青森・弘前にと移っていった。この地方も鉄道の開通に伴い、果樹や桑樹の栽培が旺盛になり、蕎麦はついに海峡を越えて北海道に移った。初めは函館付近・江差付近であったが、今では十勝・北見の地方に移り、この方面も開墾の進むにしたがって更に奥へ奥へと移り行く状態である。

 こんな事情で現在の北海道は蕎麦の供給地として優勢のものだが、道庁や農会の奨励によって品質も追々改良せられ、地質と気候が蕎麦に適しているので、相当に良品が産出される。これに次いでは満州に産するものであるが、満州は八月、九月に収穫するのではなく、その後に廻る秋蕎麦である。北海道産で需要を充たされないとすると、満州物に待たねばならない形勢となっている。

 東京市外の中野町は青梅街道の咽喉であり、武蔵平野の一帯高地を通じて青梅町に達する沿道は、乾燥した大地続きで水田を拓き得べき土地がない。田無という地名さえあるくらいだから、到ところ森林におおわれて畑地ですらはなはだ少なかった。この地方の農家は森林を伐採した焼畑には蕎麦を播き、一、二年後に苗木を植えて造林し、さらに他の部分に焼畑を作っては造林する手法を取って、この方面から蕎麦を供給したのであった。ことに三多摩郡は優良な夏蕎麦の産地であって、他の秋蕎麦に比し香味共に優れていた。その三多摩郡の供給を受けた中野町は、自然に蕎麦の集散地になった。荏原・豊島両郡の産も三多摩蕎麦の勢力に引き付けられ、中野に集まることになって、中野町に製粉事業の勃興した文化以来、百二十四年の星霜を けみ し、押しも押されぬ集散地となった。

 中野町の製粉所は、石森製粉所、飯田又右衛門製粉部(油又商店)、高野製粉所、浅田甚右衛門、栗原武右衛門(川越屋)、細沼伝次郎(萬伝号)の数所である。

 北豊島郡上練馬村練馬にある製粉所は、佐久間勘右衛門、宮本由五郎、東長崎駅前佐久間由蔵、豊多摩郡落合町にあるもの佐久間増太郎の数所である。

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