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夜鷹蕎麦、風鈴蕎麦(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)
これによると、辻淫売が寒さしのぎに食ったところから、呼ばれた名のようであるが、夜鷹蕎麦は元来御鷹蕎麦の転訛であって、徳川時代には夜中は火気を用いる行商は、火災を恐れて、一切禁止されていた。ところが将軍御用の鷹匠は、鷹を拳にして夜行しなければならないので、この苦寒を察しって、鷹匠のために特に蕎麦の夜商人だけを許したから、御鷹蕎麦と言ったのだとも言われている。 風鈴蕎麦は似て非なるもので、器も異なっていたし、担いで歩く荷も相違していたらしい。風鈴蕎麦はその名の如く、風鈴を二段に吊るし、歩くたびに自然に鳴るようになっていて、種物も二、三種ぐらいは出来たという。火事に駆けつけた野次馬連が、帰りには必ず食ったもので、行燈には当たり矢の印などが赤く記してあった。 同じようなものに、鍋焼饂飩があった。これは雑煮もこしらえたものだ。 蕎麦屋の営業が、夜遅くまでやっている今日では、ほとんど見る事が出来なくなったけれども、ちょうど今の支邦蕎麦の行商のようなものであった。 寛永宝暦の頃、夜蕎麦売りは三月三日を期限として、行商を許されていたものらしく、四日からは一切売り歩く者はなかった。陽気も温暖に向うからでもあったろうが、夜蕎麦は弥生の節句までに限られたものらしい。 |
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