蕎麦全書 巻之上  寛延四年 日新舎友蕎子 著
蕎麦全書もくじ

江戸中蕎麦切屋の名目の事

予按ずるに、蕎麦は近代の製といえども、今にては食中日用の佳品となれり。夫故、当時上下の隔てなく 発向して大きによろしく、専ら盛になれり。

予幼年の時、浅草華川戸の吉田屋と云麪店家有り。其時分高名にして、大名けんどんと云物を拵へたり。名物なりとて人々大きにもてはやせり。今も吉田屋と云有り。定て其後ならん。今は差して人唱へず。其時分処々に大名けんどんと云物有りし。然るに近年此類其多くなりたり。

堀江町一丁目新道に吉川屋と云ありて、そばの中へ葛粉を入れ製するよし。芳野蕎麦と名付て出せり。今は其家絶てなし。

其後、同町に槌屋と云あり。其後主の替りけるにや、玉屋と改名し、玉垣蕎麦と云を出せり。其先、堀留に富田屋の玉垣そばと云ありて、大きに人々にもてはやせり。朱塗りの湯桶に蕎麦を入れたり。そばの温を好む人は、湯を入れて湯桶の口より湯をしたみて用るためにせしと也。其他、道具皆赤きを用ひたる故にや、玉垣の名是より出たり。其時分はいかなる人にや、狂哥を読ける。
  杉箸の二もと立て見てあれば三わけ斗ぞ朱の玉垣となん。
此そば甚少かりし故なりとぞ。此富田屋の名目をとりし物ならん。此玉屋の玉垣、余程発向せしに、故有て其家絶へたり。

其次に、小舟町二丁目新道に大和屋と云に、朝日蕎麦といふを出せり。彼玉屋の玉垣そば少し発向せしに、難事にて其家絶し故、其形にて器物など物数寄にして奇麗也。錫の茶碗にそばを盛り、秋田杉の捲物を蓋にして、つまみは吹玉也、汁次、辛味入、黒塗りの湯桶のごとくにして、杉ばしを紙に包み、其上に誰人の詠にや、役味に寄る恋哥をしるしたり。其中に朝日蕎麦と名付し主意の哥を記したり。上覆ひの箱も春慶ぬりの桐箱にして、蓋の中に青漆にて書物箱の名目を書たる様にして朝日蕎麦と記したり。其形、野ならず。そばも吟味して念を入れたり。夫故、人々大きに賞して所々より尋ね来り、遠方へも遣しけり。

夫故、是迄有ふれたるけんどんそば、大きに衰へたり。夫故、諸方のけんどん屋、朝日蕎麦の形に習ひて次第次第に思ひ付の名目を付て出せり。基本は玉屋の玉垣そば初なれ共、其家絶へければ、大和屋の朝日蕎麦を元祖とも中興開山共云ふべし。予、近辺に居住する故、委敷知れり。

其次に、和泉町楠木に雪巻蕎麦と云ふを出せり。黒塗りの大平椀に盛りたり。雪巻とは、其色の白きを云にや。是も亦、爰彼所もてはやせり。今に其家はあれども、名目は見へず。近頃はいかがにや、余り唱ふる人なし。

其次に堺町福山、錦そばを出せり。器物皆、錦手の焼物を用ゆるなり。 其次、和泉町新道に鳴子そばと云ふを出せり。深大寺蕎麦を人々賞する故、其近辺の名を付るならん。今は其家なし。難波町に今、鳴門屋と云あり。もし是にて有るや、しらず。

大概、予が近辺より出せるそば名目、前後次第の右のごとし。

其後、伊勢丁横町、堺屋に哥仙そばと云を出せり。黒ぬりの蓋に、芝居役者のそばの発句を金粉にて書きたり。珍らしき思い付にて、武家・町家大きにもてはやれり。其中に御慰に、高家よりも云付られたり。遠路へ遣すには加減悪敷なればとて、道具を持参し先にてそばを拵へ出しけり。此発句珍らしき故にや、道具を一両日も留られし方も有りけり。今はいかがしけるにや。其家はあれ共、此名目を止めたり。

博労町三丁目横丁、甲州屋さらしな」そばあり。信濃蕎麦の心ならん。人々是を賞す。茅町、御蔵前近辺の人々賞翫す。

本町一丁目横丁、越前屋ざる蕎麦と云あり。ざるに入れて遣す故の名也。其後、百世と云名目を出せり。

亦今忍びけんどんとて、処々に重筥に入れて遣すあり。此越前屋二十年前初て仕出すよし。重箱に忍草の模様を付たるとなり。

本両替町横丁、駿河屋豊年そば有り。先年一とせ大豊年也と世上に唱ふる事有り。此年初めて仕出す故の名なり。亦堀江丁三丁目新道に駿河屋豊年蕎麦あり。本両替町出店のよし。

瀬戸物丁近江屋、芳野葛入りそば有り。此頃しっぽくそばをするよし。三色そば、五色蕎麦と云書付を出せり。

桧物町海老屋長生そば、是豊年名目の類、祝したるなるべし。

神田鍛冶町横町大和屋武蔵野そば、是も深大寺そばの意なり。

本材木町一丁目柳屋初音そば、柳よりの縁にて鶯の初音珍らしく、人々の賞翫を願ふ物ならん。

浅草並木町桔梗屋おだ巻そば、蕎麦の形より名付しものにや。但し、くり返しくり返し幾度も売る心ならんか。並木町角の家にて、観音参詣を招き入るる事甚し。

同処斧屋更級そば、横山丁甲州屋を学びしなり。

浅草茅町二丁目伏見屋麻絹そば、信濃蕎麦の意なり。木曽の麻絹と云より出し也。 浅草御蔵前富岡屋相生そば、通例は相生そばとて下品也。御膳はよろし。

浅草馬道伊勢屋正直そば、多くは小麦の粉を入る。正直にして小麦をまじへざるとの意也。基本は芝宇田川町正直屋より出たり。此正直そばも通例は正直蕎麦とて余りよろしからず。真正直とて念を入れたるは至極よろし。

湯嶋大横丁松屋十千代蕎麦、是亦祝せる名なり。

牛込船瓦町志村屋籠そば、籠へ入れて遣す也。

愛宕の下伊勢屋蒸そば、新右衛門山口屋松嶋そば、万町常陸屋千とせそば、箱崎会津屋白菊そば、北新堀上総や芳野蕎麦、大伝馬町二丁目中通り横町大菊屋桃園そば、金杉袋屋重そば、新吉原江戸丁牡丹屋の獅子そばあり。先大概此類なり。多き事なれば悉く挙げがたし。

其内、手前より名目なくして外より人の唱ふるそば有り。本町四丁目大横丁通堀留分の処、万屋もりよしそば、大坂町仙台屋彦七、けんどんのそば多き故、人々となふるなり。

本所相生町相生野相生そばなど、おかしき談也。そばをと云へば、あいと云て出す。うどんをと云へば、おひと云て出す。蕎麦も温飩も一物也。それ故相生そばと云ふとなり。一興なり。右何れも思ひ思ひに器物を物数寄にして、家ごとに争ひ売る。近年の珍事也。

其中に手製同然にして其尤よろしく名の高き者は、浅草道光庵そばなり。其先々の道光庵甚そばをたしなみ、手自製して、其檀家寺に詣ずるの折節、手製そばをしてもてなしける。其仕方甚宜、其身も座敷へ出て客の有る毎に食せしなり。日に幾度と云事なし。其たしむ事如此。そばの盛替甚だ少くして、箸なしにて食せしなり。それ故、そばの上手也と称して其名高くなり、伝へ聞者ごとに尋来り、そばを所望しけり。夫故、日々人の絶ゆる事なし。今は三代めなり。相続ひて蕎麦を製す。今以そば好きなる人尋往来て望む事になりぬ。今ではそば切屋の様になりたり。

亦、深川洲崎弁財天の地内にそば切屋あり。其初後家ありて仕出したるとて、後家そばと世上となへし。ざるに入れて出す故、今はざるそばと云へり。其始めは粗々たる小家なりしが、人々大きに持て囃し繁昌する故、今は大きに仕出したり。そば大きによろし。しかし其価はいかふ高き而已

先年、芝宇田川町に正直屋と云有り。少もまじりなしに、そば斗正直に製したる名なり。正直そば正直そばとて大きにもてはやせり。廿年余前の事也。其そば甚よろしき故、一貴家の用を承りて中々外へ出さざるよし伝へ聞く。今はいかが立身しけるにや、蕎麦切屋を止めたるよしなり。夫故、後は人々称する事なし。

亦、藪の中爺がそばとて、雑司谷の路辺薮の中に小家有りてそばを拵へ売れり。生そばにてまじりなしとて、人々大きに賞し、手前より汁を拵へたづさへ往きて食する者あり。田舎そばはよろしけれ共、汁悪敷故也。是も余程久敷事にて、今も云出す人、間にはあれ共、余り賞する人なし。世上次第にそば切はやり出て、製よろしき処多くなりたる故なり。

差て名目はなけれ共、そば至極よろしきは深川佐賀町大和屋御膳そば、は本所ばん場の河岸通出雲屋の御膳蕎麦也。都て念を入れたるを御膳そばと云。

近き頃、人形町に万屋とて新店出来、しっぽくそばを出せり。そば中々よろしとてもてはやせり。しかし余りはやらざる故にや、又頃日、翁そばと云名目を出せり。

当秋、新材木丁板新道十一屋と云名目を出せり。八月十五日より仕出せし。近辺に札を廻したり。近年そば発向故にや、種々名目を出して競い商ふ、珍敷事也。予が近辺駿河屋豊年そば、書付をして引たり。十月廿一日より富士見ぶっかけそばを仕出すよし。扨々様々の事なり。

一等次なる物にはニ八、二六そば処々に有り。浅草茅町一丁目に亀屋戸隠ニ六そば、和泉町信濃屋信濃そば、大根のせんを添へ遣す。

廿四五年以前に、神田紺屋町一丁目横町に駅路そばと云あり。旅躰の意にして腰懸ながら食すと云意にや。今はなし。

新吉原京町堺屋、二丁目市野屋、此二軒に神楽そばと云有。其故問へば、料十二銅也となん。八九年以前、土手の下り口に釣瓶そばと云ありて、大きにもてはやれり。其器物升形釣瓶の様にて、提て持行しとなり。至極よろしき製なりと。今はなし。若松屋幸助と云者拵へしとなり。

又町々夜中ふりに売りありくそばあり。乞食そばと云。是も手前よりの名目ならず。それ故、色々唱へて其名おなじからず。予が近辺などにては米番そばと云。其故は米店の家の前に米俵多く積置故、夜中不寝の番とて人を置て守らしむ。是を米番と云。外面に夜中起居る故、永の夜必ず此そばを調へ食する故の名なり。京都にては夜たかそばとも云よし。其料一八なり。夜陰深更まで売行く也。

此ごとく色々の品あり。遂一挙がたし。只其大概を書出す也。

右の通そば色々の名目はあれ共、麪店家の蕎麦はとかく小麦の粉をまじへ、其製よろしからず。手前にて念を入能製したるにあらざれば、真のそばとは云がたし。そば好寄なる人いかがおぼすらん。

蕎麦の煮湯を呼んでそば湯と称して、そばを喫する後、此湯を飲ざれば必中傷せらる。若多く食し 飽脹すと云へ共、此湯を飲む時は害なしと。未是試みず。

 

次、そば後蕎麦湯を出す事

 

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