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蕎麦に関する雑話 村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年) |
信濃の俳人一茶が、行脚の途次、当時江戸でも有名な俳人を訪問した時、取次の門人から一茶の衣服の極めて粗末なことを聞いた宗匠は、逢えば物乞いでもされると思ったのであろう。取り次ぎをして居留守をつかわせ、とうとう逢わなかった。すると一茶は、はるばる土産として携えて来た蕎麦粉を、玄関の式台に撒き、 信濃にも蕎麦と仏と月夜かな と指で書いて、飄然として立ち去った。 それを後で見た宗匠は、初めて一茶であったことを知り、非常に逢わずに帰した事を後悔したが及ばなかった。そこですぐに書簡をしたためて一茶の故郷に贈って、無礼を謝し、のち信州に旅した時、柏原の一茶の住居を尋ね、往年の無礼を侘びようとしたが、庵には誰一人いず。ただ軒下に一つの古い瓢を吊るして、 俳諧の殿様これへ御成かな と書いてあった。
浅草観音にて能ありけるとき、 (『鹿子ばなし』)
寛政四年の頃とかよ、青山下野守の家士、本国より江都へ出府のおり、木曽路なる寝覚の里に足をやすめて、名物の蕎麦を食いけり、この蕎麦売る家の女の顔に、そばかすというもの多くありけるを家士の見て、 名にめでゝ木曽路の妹がそばかすは寝覚の床の有にやあるらん と書きて乙女に与へけるに、女はこの歌を見て、勝手の方に入りしが、程なく返歌と覚しくて、書きたるもの持ち来たりしを見るに、 そばかすは賤が寝顔に留めおきてよい粉を君に奉りぬる (『今昔狂歌叢話』)
安永の頃、東海道藤沢宿に、桔梗屋といえる旅人宿あり、ここに園といえる婢ありけり。同国一の宮といえるところの農夫の子なり。性質蕎麦切を好みて食することおびただし。徒然草に見えたる丹波栗くい娘の如くなり。米の飯、麦飯などは嫌いて食わず。ただ蕎麦をもって常食とす。かつそば切を製すること上手にして、奇妙なり。かかる異物なれば縁うすくして夫なし。十八歳の春より、ふと桔梗屋へ給仕に来たりけるが、ここに相模の国大山の石尊とて、 いつしかこの園が、蕎麦を上手に製する事名高くなりて、江戸人多くこの家に宿り、園に蕎麦をこしらえさせ食いける事流行しけり。園また蕎麦をしい勧むること上手にて、客一碗くい終わるとき、園は遥かこなたより、また一碗の蕎麦を投げ込みける。その蕎麦切あやまたず、旅人の前なる椀の中へ落ちること奇妙なり。 十人二十人のの客にても、蕎麦をしい勧むるもの、園ただ一人にて、四方八方の客人の控えたる椀の中に投げ入るるに、一つとして取りはずし、外に落つる事なく、ことごとく椀の中に入りて、いささかも畳の上などへこぼるる事なし。よく鍛錬したるものなり。ただし園に限らず、相模の国は、殊に蕎麦を好む風俗にて、いずれの郷里の女にても、よく蕎麦切を、客の椀中へ投げ入るる事を上手にす。わけてこの園は殊に上手にて、しかも蕎麦を製するに、大いに味よろしく、江戸もまた他国にまさりて、蕎麦を好むところなれば、この桔梗屋の園の事を聞きつたえ、たずねてこの宿にとまり、蕎麦を 宿屋のあるじも、この園を家の福鼠と称して、よろず心を用いて使いけり、かくの如く繁盛すること八、九年、いつしかこの家の妻、嫉忌すること起こりて、園に暇つかわしけり。これより後旅人の止宿もすくなくなりて、不繫昌となりけるにぞ、再び在家をさがして、蕎麦を上手に製し、上手に投げ入れて給仕する女を抱えれども、一向さきの如くは流行らざりし。 (『百家琦行伝』)
深川相川町に今村という蕎麦屋のあったのは、明治初年で、この家は女主人が経営していた。帳場に坐って眼鏡越しに人を見入り、かん走った声ですこぶる多弁な上、応対なぞも仰々しいのが癖であった。 その後家が、近くの寺の僧と通じて、ついに入夫として迎えるに至った。ところがこの入夫は朝から晩まで酒びたしという男だったので、家政ははなはだしく窮乏し、御難場というあだ名が通称となり、 難場の蕎麦屋か今村かトト飲んだくれカカ仰山な という俚謡までできて、囃し立てたものだ。
京町(吉原)の三浦に几帳とて、やんごとなき全盛の女郎ありけり。蕎麦切を好みて多く食いけり。客よりの付け届けは、小袖のほかは皆蕎麦切となりける。それのみか、甘汁は愚痴なりと、江戸汁のみ好み、そのほか人集めして食わせけるほどに、出るときは半分は角のつるがやの払いとなりけり。この真似をして、今も二、三人蕎麦切好きの女郎ありけるとぞ。 (『風流徒然草』)
媗鈍は寛文二年寛文二年寅秋中より、吉原に始めて出来る名なり。江戸町二丁目に仁右衛門というもの、饂飩蕎麦切を商いしが、一人前の弁当を拵え、蕎麦切を仕込みて、銀目五ふんずつに売る、
(『風俗文選』)
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