蕎麦全書 巻之上  寛延四年 日新舎友蕎子 著
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役味概略の事

予按ずるに、大根のしぼり汁辛辣ならざるは、悪敷者なり。是も人々の好嫌ひ有る物なれば、一概には云ひがたし。間に、しぼり汁を嫌ふて曾て用ひざる人あり。亦汁には入れざれ共、折々そばを食する間々少づつ吸う人も有り。先は、しぼり汁を好む人、十人に八九人也。

亦大根も其種類多し。随分吟味して擇び用ゆべし。秋より冬の間、春の初め迄は辛辣なる物もあれども、春の末、夏の時節に辛辣なる物少し。浅草道光庵にて用ゆる赤山大根と云物、至極よろし。武州川口善光寺辺のよし

是武州忍領にて作り出せるうじしり、又は鼠大根と云と同物なり。是も夏の時節甚少し。兼て貯へ置べし。

山葵も宣敷物也。しかし、是は大根の辛辣なる物なき時、しぼり汁の替りにする事なり。乍去、是も人々の好嫌ひありて、大根より山葵を好む人もあるなり。

紫苔は、予など余り好ずといへども、世上好む人多し。夫故、手前には一つの仕様有り。浅草海苔の上品を撰み、是を巻きて端より細く多葉粉を切るようにして、紙の上にて能くあぶり乾し、役味の中に用ゆ。其様甚雅にして、其味ひも大きによし。

梅干は今余り用る人なし。世上広き事なれば、今も用る人も有るべけれ共、余り見当らぬ也。或人の云、奥州辺などにては蕎麦温飩には兎角梅干を定て付ると也。

近来胡桃を付て蕎麦の間に食すれば、腹をすかしてよしとて、人々好む事也。

今又役味に生葱を定て用るなり。昔は用ひざる事にや、しらず。此訳巻末役味の品を委敷解し置たり。此事をしるし置。見合すべし。

古来、未だ蕎麦を賞する者を聞かず。近代是を製す。今、世挙て上下是を賞味す。東北の人専これを造る事競誇る。西南の是を造れ共、佳ならず。只、京都近来是を造る。美也。然れ共、麪よからず。蘿蔔又辛辣ならず。故に江東の美に似ず。

 

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