Internet Explorer ではリンクが機能しないことがあります。Firefoxではフリガナが表示されない事もあります。Chrome か Safari でご覧になることをお勧めします。

  演芸に現れた蕎麦(村瀬忠太郎 蕎麦通 昭和5年)  

 劇中に演出された蕎麦は、極めて少ない。しかし風鈴蕎麦や鍋焼饂飩の屋台は、よく仕出しの道具に用いられている。芝居では例の天保六歌撰中、直侍と丑松とが、雪の入谷で邂逅の場面と、助六の狂言に、蕎麦屋の口入宿をならべたものくらいであろう。

 雪夕入谷畷道  
直「明日をも待たず今夜の中、この江戸の地を離れなば。  
丑「長い別れになる二人、どこぞで一杯やりてえが。  
直「江戸と違って入谷じゃア、食物店は蕎麦ばかり。  
丑「天か玉子の抜きで飲むのも、しみったれな話だから。  
直「祝い延ばして、此のまま行くも、降る雪より。  
丑「互いに積もる身の悪事。

 助六
 「美男小安や馬の鞍、六軒掘を飛出して、大芝、芝口くいつめて、原田屋の子分となり」  この狂言では、蕎麦屋の出前持ちに割の悪い場合があったので、馬道のおかめ蕎麦の後家が、苦情をつけて、改めさせたという話が残っている。

 福山かつぎ
 助六狂言に出る蕎麦屋福山のかつぎのことは、天保十五年の十月、三枡屋二三治の著した『紙屑籠』の中に次のごとく記されてある。

古来より助六狂言の時は、堺町ふきや町にても、福山のかつぎ吉原へそばを持来る。其むかし木挽町にて高麗蔵初役の助六の時、吉原相生屋のかつぎ出でたることあり。土地によりて用ゆると見え、福山は近来の名高きもの。二代目團十郎助六の時には、いずれのそばやか、其頃は福山の見世ありしこと心得ぬもの、三四年このかたは福山としるべし。故にけんどん箱かつぎの半天、福山より出る事とはなりぬ。

 中村仲蔵とらんめん
 忠臣蔵の斧定九郎の扮装に成功した仲蔵が、この定九郎の役をふり当てられた時、従来のままの型では満足する事が出来ず、なんらかの新味を出すべく、苦心努力をした事は、非常なものであった。

 仲蔵は思いあまって日頃から信仰する柳島妙見に、日限りの祈願を籠めて日参をした。 そしてある日、妙見に参詣の帰りに、俄雨に逢って、押上のらん麺に雨宿りをしていた。すると同じく雨に逢った侍が、慌しく刀の柄を袖で包むようにして、らん麺の店に飛び込んで来たのであった。

 見るともなしにその侍を見た仲蔵は、われを忘れて頭から足の爪先まで眺め入ったのである。異様な服装ではない。黒羽二重の紋服の裾を端折って、雪駄を脱いで帯に挟み、きりりとした姿であった。

 月代の延びたところは、幾分凄みを見せたが、苦み走った好い男である。仲蔵はこの侍を見るや、たちまち定九郎の姿は釈然として解決した。そして仲蔵はこの侍の姿服装を、そっくりそのまま、定九郎の姿として舞台に現したのであった。

 それが非常な評判となって、仲蔵の定九郎のために観客が集まったとまで言われるほどの、好評を博したのである。

 モデルとした侍は、当時旗本五人男の一人として知られた此村大吉であったと言われている。


 

 

もくじにもどる

 

 

喜心庵のホームページ