■ 「十割蕎麦」は新しい?
私の記憶が確かならば、そば屋のお品書きに「十割蕎麦」というものが出現したのは、つい十数年前のことだったのではないかと思います。
「十割で打つ」なんていう言い方は昔からあったと思いますが、これはただ単にそば粉の割合を言っているにすぎず、蕎麦の名前ではありません。
では、そば粉100%のそばの昔からの呼び名は何かといえば、これは「生蕎麦(きそば)」なんです。
「おい、ちょっと待て。うちの近所のそば屋は、そば粉なんて5割も使ってないのに生蕎麦って看板に書いているぞ」と思われたかたも多いと思います。
たしかに現代では生蕎麦を、そば粉100%のそばという意味で使っているそば屋はありません。しかし、生蕎麦の元々の意味は、そば粉100%のそばだったのです。
そんなのウソだとお思いでしょうが、広辞苑にはこう書かれています。
広辞苑第6版(岩波書店)
きそば【生蕎麦】 そば粉だけで他にまぜもののないそば |
ちなみに【十割蕎麦】という言葉はまだ広辞苑には載っていません。(広辞苑第6版2009年現在)
古い書体(変体仮名)で書かれた
明治時代の「きそば」の看板。
右から左に読みます
■ 「生蕎麦」の「生」とは
生という字には「いきる」「うまれる」「なま」という意味もありますが、「き」と読むと「純粋な、まじりけがない」という意味になります。 灘の生一本 とか 生真面目 とかの生です。
しかし、この「生(き)」も廃れつつある言葉のようです。先日もあるうどん屋さんで、きじょうゆうどんを注文したのですが、「きじょうゆ」といいながらも醤油に砂糖やダシ(濃縮かつおだしの素?)がたっぷり入っていて驚きました。
■ 言葉の意味はあっというまに変化する
「生蕎麦(きそば)」の意味するところがなぜ変化したのか。詳しいいきさつは分かりません。食べ物の世界では、言葉の意味が誰も気が付かないうちに、あっという間に変化するというのはよくあることです。
最近の例で言えば、「カレー・ルー」という言葉の意味が、まさに現在進行中で変化しつつあるといえます。
「カレー・ルー」といえば、ご飯の上にかけるあのトロトロの茶色い液体というのが、数年前から常識になりつつありますが、実はこれは間違いなのです。
「カレー・ルー」の正しい意味は、カレー粉と小麦粉やバターなどの油を練り合わせた物、つまり、ハウスジャワカレーやS&Bゴールデンカレーのパッケージの中に入っている、あの茶色のかたまりのことなんです。
ラルース・フランス料理小事典(柴田書店)
ROUX(ルー) 油,バターまたは脂肪を熱して小麦粉をふり入れ,水分を加えたもの。多くのソースのベースとなる。 |
でも、カレー屋さんで「ルー多めに」と注文しても、ご飯の上にあの茶色いかたまりをのせるなんてことありませんよね。カレー屋さんはプロです。正しい意味は知っているのでしょうが、そこはそれ、お客様に合わせるのが商売ですから。
いずれ調理師学校でもカレー・ルーはご飯にかけるものだと教えるようになり、カレー屋さんがルーの正しい意味を忘れてしまうのもそう遠い未来のことではないでしょう。
話は脱線してしまいましたが、
生蕎麦が、 そば粉だけで打ったそば という本来の意味を失ってしまったため、生蕎麦に代わる名前が必要になりました。それが十割蕎麦だったわけです。
しかし食べ物の世界、言葉の意味の変化がはげしいですから、もしかすると10年後には、「二八の十割蕎麦」なんていうそば屋が現れているかもしれません。
|